パーカーとスタンダード  

 

パーカーの吹くスタンダードがすきです。

「 ビ・バップをバリバリにこなすパーカーの吹くスタンダードなんて軟弱な 」なんて意見の方もいるかもしれません。でも、「Now's The Time」のなかの「Chi-Chi」3、4連発を聴きぬいて、そのあと流れる「I Remember You」のテーマにおもわずホッとしてしまった経験などはないでしょうか。コワモテのバップ・ナンバーももちろん気持ち良いけど、パーカーの吹くスタンダード演奏も、パーカーのオイシイ部分ではないでしょうか。

ところでパーカーの吹くスタンダードは2つの側面をもっているとわたしはおもいます。
Copyright (C) 1997 Ross Burdick
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ひとつは、よくいわれているように、ビ・バップの演奏の素材としてのスタンダードです。

「Cherokee」のコード進行から「Ko Ko」が、「S'wonderful」から「Stupendous」、など、スタンダードのコード進行を背骨にしてバップ・ナンバーはつくられたといわれますが、名目上はスタンダードの曲の演奏といっておきながらやっていることはコテコテのビ・バップなんてこともよくあります。でもこういった演奏、気持ちいいですよね。
たとえば、「'48年7月 THE ONIX」でのライブで演奏された「The Way You Look Tonight」。わたしこの演奏、大っ好きなんです。むちゃくちゃラフな雰囲気のなか、ひたすら旋回しながら上昇していくようなフレーズを、パーカーはアップテンポで気ままに発砲していきます。パーカーにとってこの曲は絶好の素材のような気がします。
もっともこういう使い方のばあい、その曲が名目上「The Way You Look Tonight」というスタンダードであろうと、そうでなくても(たとえば、この曲をもとにしたという「Klaunstance」という曲名になっていようと)、実際はどうだっていいんでしょうけど・・・。

こういったスタンダードの素材としての使い方については理論的にもいろいろいわれているとおもいますし、わたしなぞ口のはさめる部分ではありませんのでこのへんにします。

というわけで、本題はパーカーの吹くスタンダードのもうひとつの側面です。その側面とは、スタンダードそのものの姿です。
 この側面はパーカーがおもにテーマのフレーズを吹くところであらわれてきますが、とにかくパーカーはテーマのフレーズを吹くときに、よけいなニュアンスを排除します。

他の人の場合、たとえば、わたしはジャッキーマクリーンの吹いた「Old Folks」が好きだったりします。これを聴く以前は、「Old Folks」というスタンダード曲に対してわたしはイマイチピンとこない印象をもってました。しかしマクリーンの「Mclean's Scene」での演奏には感動して、「 そうか、Old Folksってこういう曲だったんだ 」と、曲にたいしての一定のイメージをはじめてつかんだような気になり、愛着がもてるようになりました。

この場合、マクリーン固有の演奏のニュアンス、くせ、抑揚、音色などのかもしだす本人の「色」といったものが「Old Folks」という曲自体のイメージに見事にマッチしたために、「Old Folks」という曲に一定のイメージをもち、愛着までもてるようになったのではないか、とおもっています。

ところがパーカーがスタンダードのテーマを吹いた場合、事情が少々異なってきます。

スモールコンボの演奏時にバリバリのバップ曲らの合間にパーカーがふと挟みこむスタンダード、そしてバードウィズストリングス、「Smoke Gets in Your Eyes」「The Song Is You」「If I Should Lose You」「I'm in The Mood for Love」などなど・・・、これらのテーマを演奏するとき、パーカーは余計なニュアンスをまじえません。余計な抑揚をつけずに、ずぶとくまっすぐな音色で、スタンダードをとことんありのままにストレートに演奏します。
それでもすくなくともわたしには、パーカーの吹くスタンダードに心をうごかされます。いったいどの部分にうごかされるのでしょう。

最近おもいはじめたのが、それがスタンダードそのものの姿、スタンダードの素朴な「歌」そのものの力によるものなのかなということです。あんぱんやヤキソバパンの味ではなく、フランスパンの小麦粉そのもののあじわいに惹かれるようなものなのかな・・・と。
じゃあ人を惹きつける力をもつ「歌」っていったいなんなの、といわれると、今のところわたしにはさっぱりわかりません。音楽に関しての最大のナゾだとおもっています。

いずれにしろパーカーが吹くことで浮きぼりにされるスタンダードそのものの姿が、パーカーにとってのスタンダードのもうひとつの側面ではないかとわたしはおもいます。
それはパーカーの音楽のなかでは副産物にすぎないかもしれない、でもそこにしゃぶりついてこそ、はじめてパーカーを骨の髄まで味わえるという気がします。

しかしながら、パーカーの吹くスタンダードの魅力には、これだけでは説明しきれない部分があることも事実でしょうね。
 

ところで、ここでパーカーの重要な資質がみえてきます。個人的には、スピードよりも、切れ味よりも、フレーズよりも、ノリよりも、パーカーの一番大切な資質かもしれないとおもいはじめているのですが。
それはパーカー自身の「色」がないということです。パーカーを「色」でたとえても「透明」だということです。その透明さゆえにスタンダードそのものの姿が浮き彫りにされるのではないでしょうか。
他の一流といわれるジャズミュージシャンには、それぞれの演奏のニュアンスの違いによる固有の「色」があり、それがおのおのの持ち味となっていますが(マクリーンなんかよく「くすみ色」だとか具体的に表現されてますが・・・)、パーカーはそれとはまったく別の領域で凄みを発揮しています。

わたしは別の文で「 パーカーは情感といった夾雑物になりがちなものを含めない 」だとか「 肉体とサックスが直結しているイメージ 」だとかいってますが、パーカー自身の透明さゆえに、よけいなフィルターや足かせがないため、それらが実現されているようにおもいます。パーカー自身の透明さがパーカーを別格のジャズミュージシャンにさせているとおもっています。
 

ちなみにテーマメロディーについてはとことんストレートに吹きあげるパーカーですが、アドリブに入るといつものパーカーのアドリブにのめりこんでいきます。また、テーマメロディーの最中でもいざメロディーをくずすとなったらハンパなくずしは見せずに、テーマとはかけ離れたパーカーのアドリブをどしどし瞬間的に断片的にまぜこんでいきます。
 やっていることが、その瞬間、瞬間で両極端なんですが、これもパーカーの透明さというまったく同じ資質から生まれているようにみえます。
パーカーのあまりの透明さゆえにテーマを普通に吹くときにはスタンダードそのものの姿が、そしてアドリブにはいるときはパーカーの身体性そのものが浮き彫りにされてしまい、その切り替えの異常なすばやさが演奏時の両極端さを生んでいる、そんな気がします。

最後に、よけいな感傷になりますが、こういったパーカーの音楽の透明さがパーカーという人物自体にも反映してしまっていたような気がしてなりません。
楽屋の中でギャラについてもめて、人を激しく汚くののしり続けるパーカーが、お客がたまたま楽屋にまよいこんできたその瞬間には平然と紳士然とした態度をみせる、そんな変幻自在なたちふるまい。食欲、性欲にたいする異常なまでの貪欲さ。クスリや音楽。自らの肉体をただひたすら開示していくようなアドリブ。
逸話をきいていると、善悪関係なく生活上のあらゆるものにベクトルを向けて、ひとかけらの邪念もなく、よけいな色気もみせずに、身をあずけてしまう特異さがパーカーにはあったようにおもえます。

パーカー自身に「色」はなく、唯一パーカーにあったのは邪念のはいりこまない単なるベクトル、あらゆる物事にたいしての、あまりにも純なあこがれ、それだけだったのではないかとわたしは想像します。それが純であればあるほどパーカー自身の透明度は増していきます。

パーカーの演奏のなかで、パーカー自身をすり抜けて投影されるスタンダードそのものの姿、そこにあまりにも透明な存在であるパーカーに唯一残された、音楽にたいする純なあこがれを感じる。パーカーのスタンダード演奏に心惹かれるのはそのためでは・・・、といったらやっぱり感傷的すぎますね・・・。

 

1999. 5. 4 よういち
 

 

Photos in this page is from "The Jazz Photography of Ray Avery"
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