パーカーとスタンダード
パーカーの吹くスタンダードがすきです。 「 ビ・バップをバリバリにこなすパーカーの吹くスタンダードなんて軟弱な 」なんて意見の方もいるかもしれません。でも、「Now's The Time」のなかの「Chi-Chi」3、4連発を聴きぬいて、そのあと流れる「I Remember You」のテーマにおもわずホッとしてしまった経験などはないでしょうか。コワモテのバップ・ナンバーももちろん気持ち良いけど、パーカーの吹くスタンダード演奏も、パーカーのオイシイ部分ではないでしょうか。 ところでパーカーの吹くスタンダードは2つの側面をもっているとわたしはおもいます。 ひとつは、よくいわれているように、ビ・バップの演奏の素材としてのスタンダードです。
「Cherokee」のコード進行から「Ko Ko」が、「S'wonderful」から「Stupendous」、など、スタンダードのコード進行を背骨にしてバップ・ナンバーはつくられたといわれますが、名目上はスタンダードの曲の演奏といっておきながらやっていることはコテコテのビ・バップなんてこともよくあります。でもこういった演奏、気持ちいいですよね。 こういったスタンダードの素材としての使い方については理論的にもいろいろいわれているとおもいますし、わたしなぞ口のはさめる部分ではありませんのでこのへんにします。
というわけで、本題はパーカーの吹くスタンダードのもうひとつの側面です。その側面とは、スタンダードそのものの姿です。 他の人の場合、たとえば、わたしはジャッキーマクリーンの吹いた「Old Folks」が好きだったりします。これを聴く以前は、「Old Folks」というスタンダード曲に対してわたしはイマイチピンとこない印象をもってました。しかしマクリーンの「Mclean's Scene」での演奏には感動して、「 そうか、Old Folksってこういう曲だったんだ 」と、曲にたいしての一定のイメージをはじめてつかんだような気になり、愛着がもてるようになりました。 この場合、マクリーン固有の演奏のニュアンス、くせ、抑揚、音色などのかもしだす本人の「色」といったものが「Old Folks」という曲自体のイメージに見事にマッチしたために、「Old Folks」という曲に一定のイメージをもち、愛着までもてるようになったのではないか、とおもっています。 ところがパーカーがスタンダードのテーマを吹いた場合、事情が少々異なってきます。
スモールコンボの演奏時にバリバリのバップ曲らの合間にパーカーがふと挟みこむスタンダード、そしてバードウィズストリングス、「Smoke Gets in Your Eyes」「The Song Is You」「If I Should Lose You」「I'm in The Mood for Love」などなど・・・、これらのテーマを演奏するとき、パーカーは余計なニュアンスをまじえません。余計な抑揚をつけずに、ずぶとくまっすぐな音色で、スタンダードをとことんありのままにストレートに演奏します。
最近おもいはじめたのが、それがスタンダードそのものの姿、スタンダードの素朴な「歌」そのものの力によるものなのかなということです。あんぱんやヤキソバパンの味ではなく、フランスパンの小麦粉そのもののあじわいに惹かれるようなものなのかな・・・と。
いずれにしろパーカーが吹くことで浮きぼりにされるスタンダードそのものの姿が、パーカーにとってのスタンダードのもうひとつの側面ではないかとわたしはおもいます。
しかしながら、パーカーの吹くスタンダードの魅力には、これだけでは説明しきれない部分があることも事実でしょうね。
ところで、ここでパーカーの重要な資質がみえてきます。個人的には、スピードよりも、切れ味よりも、フレーズよりも、ノリよりも、パーカーの一番大切な資質かもしれないとおもいはじめているのですが。
わたしは別の文で「 パーカーは情感といった夾雑物になりがちなものを含めない 」だとか「 肉体とサックスが直結しているイメージ 」だとかいってますが、パーカー自身の透明さゆえに、よけいなフィルターや足かせがないため、それらが実現されているようにおもいます。パーカー自身の透明さがパーカーを別格のジャズミュージシャンにさせているとおもっています。
ちなみにテーマメロディーについてはとことんストレートに吹きあげるパーカーですが、アドリブに入るといつものパーカーのアドリブにのめりこんでいきます。また、テーマメロディーの最中でもいざメロディーをくずすとなったらハンパなくずしは見せずに、テーマとはかけ離れたパーカーのアドリブをどしどし瞬間的に断片的にまぜこんでいきます。
最後に、よけいな感傷になりますが、こういったパーカーの音楽の透明さがパーカーという人物自体にも反映してしまっていたような気がしてなりません。 パーカー自身に「色」はなく、唯一パーカーにあったのは邪念のはいりこまない単なるベクトル、あらゆる物事にたいしての、あまりにも純なあこがれ、それだけだったのではないかとわたしは想像します。それが純であればあるほどパーカー自身の透明度は増していきます。 パーカーの演奏のなかで、パーカー自身をすり抜けて投影されるスタンダードそのものの姿、そこにあまりにも透明な存在であるパーカーに唯一残された、音楽にたいする純なあこがれを感じる。パーカーのスタンダード演奏に心惹かれるのはそのためでは・・・、といったらやっぱり感傷的すぎますね・・・。
1999. 5. 4 よういち
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