パーカーの居たニューヨーク2003年 その1
2003年11月9日(日)から13日(木)にかけて、ニューヨークを観光してきました。 パーカーの住居は立ち並ぶアパート群の一角の目立たないごく普通のアパートの一室にありました。ただ、そのアパートの壁にはN.Y.Landmarks認定の標識が貼ってあり、近くの交差点の青い標識は住居の前の通りが「Charlie Parker Place」であることを示していました。 パーカーの住居の向かいのトンプキンス・スクウェア公園では毎年パーカーの誕生日8月29日にチャーリー・パーカー・ジャズフェスティバルが繰り広げられているそうですが、普段は老若男女の集うなごやかな雰囲気の公園です。公園内には犬を放して遊ばせるスペースがあり、芝生の所々をリスが走り回っていました。 ベンチにのんびり座っていると、妻のチャンが子供達を遊ばせている様子が思い浮かびます。ときにはパーカーもチャンと共に公園内を走り回る子供達を見守りながら穏やかなプライベートを過ごしていたのでしょうか。 52nd Streetの現在 1940年代後半、昇り竜の勢いでパーカーの演奏が充実していった時期にジャズの中心であった当時の歓楽街、ミッドタウンウェストの52nd Streetの5th Avenueと6th Avenueの間、通称「Swing Street」を見てきました。 この通りに多くのジャズクラブやキャバレーが軒を連ねていたそうです。当時のパーカーの名演の残る「Three Deuces」「The Onyx」、そして「The Famous Door」「Spotlite」「Down Beat」「Samoa」「Jimmy Ryan's」など、各店がジャズ界のスーパースター達を出演させることにしのぎを削りあい、毎晩この通りの店をハシゴすることで当時のジャズの全てを味わうことができたそうです。うらやましい! しかし、この歓楽街も1960年に入るまでにはすっかり衰退して、現在のこの通りは高級ショップ群や巨大オフィス群に囲まれた通りの一つとなっており、標識以外にそのなごりはほとんど見られません(実は後日、ジャズの巨人達のプレートが道に埋められていることを知ったのですが、完全に見逃しました・・) このようなジャズクラブの趨勢は、パーカーがニューヨークで出演したクラブの足跡を見ていくだけでも感じられます。 パーカーがニューヨークに出てきた1940年の初頭は、マンハッタン北部(アップタウン)にあるハーレム地区で活動しニューヨークのジャズメンのどぎもを抜きました。 「Clark Monroe's Uptown House」のジャムセッションの中でビ・バップの実験を繰り返し、ジェイ・マクシャン楽団の一員として「Savoy Ballroom」でめくるめくソロを繰り広げました。ビ・バップ発祥といわれる「Minton's Playhouse」、ついでにデューク・エリントンで有名な「Cotton Club」もハーレムですね。 やがて1940年代も後半になるとマンハッタン中部のミッドタウン地区、52nd Street界隈や「Birdland」「Royal Roost」でパーカーは活躍し、1950年代に入るとマンハッタン南部(ダウンタウン)の「Cafe Society」「Open Door」などグリニッジ・ビレッジ地区のクラブに出演する機会が多くなります。 もちろんパーカーはいつの時期にも各地を転々としていて、マンハッタン内だけでも今日はアップタウン明日はダウンタウンと動き回ってはいましたが※、マンハッタン内の傾向として長期的に見れば、出演する場所の重心が、徐々に南下していったように思います。ジャズクラブもそれに歩調を合わせて、パーカーの死後には「Village Vanguard」「Cafe Bohemia」などグリニッジ・ビレッジのジャズ・クラブが盛んになったようです。現在もグリニッジ・ビレッジ周辺にジャズの演奏されるクラブが数多く存在しています。 ※ ただし1951年から1953年までニューヨークのキャバレーカードの没収があったので、この間はニューヨークのナイトクラブへの出演は極端に少なかったのですが。 その2へ続く 2003.11.29 よういち
The Photo of 52nd Street in 1948 is from "Photographs from the Golden Age of Jazz" by "American Memory" Library of Congress Copyright (C) William P. Gottlieb ,Allrights reserved.
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