Bird Lives: 没後 その3
(改訂第2版:草案)


この文章は、素晴らしいパーカー・トリビュートサイト"Bird Lives"掲載の文章を、著者Llew Walkerさんのご好意により、私が和訳したものを掲載したものです。義務教育レベルの英語力で「エイヤァ」と訳したものですので、問題のある個所がいくつもあろうかと思います。間違いをご指摘いただけると幸いです。
また資料的な使い方をする場合は、くれぐれも原文を参照いただきますようお願いします。 (よういち)

原文はこちら:"Bird Lives: The End and After"


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チャーリーの死から3日後、様々な筋書きの報道がなされた。ロスチャイルド家の資産を継承する金持ちの夫人の家で黒人のジャズミュージシャンが死んだことで、真実よりも不義の疑いに関心が寄せられた。彼らのあてこすりや性的疑いの煙幕のせいで、真実の記録から目をそらされてしまったのだ。新聞や雑誌にとってチャーリーはただの黒人サキソフォンプレイヤーであり、単なるジャズとバップ・ミュージック界の一人として並べ立てただけだ。たぶん、このころからチャーリーパーカーの謎が確立していったのだろう。

死亡の原因は議論され続けている。検視結果で、彼が肺炎で死んだと明らかにされているにもかかわらずだ。チャーリーは心臓病で死んだのだとか、潰瘍の出血だとか、肝硬変が進んだのだとか、ヘロインの打ちすぎだとか、いろいろな主張がある。かなりおかしな話も2つある。チャーリーは腹を殴られて死んだのだという説と、アート・ブレイキーに射殺されたのだという説だ。伯爵夫人が医者に賄賂を送ることで真相は隠されたとのことだ。今もなお、ある高名なパーカー研究家は彼が殺されたのだと信じうる根拠があると思っている。

フレデリック・J・スペンサーの著書『Jazz and Death』ではチャーリーの死亡に関するあらゆる情報が詳細に説明されており、検視結果によれば肺葉性肺炎が死因であったと彼は結論付けている。これはことさら驚く情報ではない。ドリスが彼の死後に述べているのだ。
「念入りに検死解剖を行ったが、チャーリーは肺葉性肺炎で死亡したと地方検事はおっしゃっていました。他には何もおっしゃってはいません。」

個人的にはオリン・キープニュースの見解が好きだ。
「過度の感傷を抜きにしてもこのことは言えるだろう。彼以前にも少なからずいたように、チャーリー・パーカーは制御できない才能に晒されて死んだのだと。」

死んでまもなく”バードは生きている”という言葉がニューヨークの壁に書かれるようになった。後にテッド・ジョーンズとそのアーティスト仲間はこの落書きが自分たちの責任であると主張している。

いくつかの福祉コンサートや記念アルバムが行われてお金が集まったが、それが母親や妻や子供たちに渡っていった形跡は無い。アディは500ドル受け取ったとは言っているが。

1950年代後半、ドリスはニューヨークの新聞に、権利者の許可なくチャーリーの曲を使う人に対して法的措置を取るとの広告を出した。

アニタ・J・ディクソンはパーカー・エステートの弁護士、ロバート・Z・ドブリッシュにインタビューをして、その財産状況をこう述べている。
「1955年から1967年の間、エステート・オブ・チャーリー・パーカーは重大な訴訟に入っていた。正式な妻と配偶者と主張する全ての人たちの間で争いがあった。(・・・)当時は多大な攻撃、書類の偽造などがあった。結局1966年に議論は結論を得ることなく終わってしまった。財産は分割され、レオン・パーカーが管財人に任命された。」
レオンはドリスが管理していた財産の3分の2を得ることになったようだ。チャンの子供たちが残りを受け取ったのかもしれない。

悲しいことにレベッカと息子との間でも口論があり、仲たがいが起こった。ディクソンの記事ではこう述べられている。
「彼(レオン)は私ではなく彼女ら(ドリスとチャン)に耳を貸すようになったのです。」
「母親のことを聞かずにあんなグルーピーの言葉を信じるなんてことを考えると、時々辛くなるの。(レオン・パーカーはこの言及が取り上げられることを拒否している)」
この声明はレベッカもレオンも亡くなった1996年に取り上げられた。亡くなる前には仲直りしていたことを希望するしかない。レオンの管財人としての役目はたぶん妻か子供達が継承したのだろう。

重要な点は、チャーリーが4度の結婚に関わりながらも、離婚で終わった形跡が無いことだ。チャーリーはチャンとは正式に結婚してはいない。現在は内縁の妻も合法的に結婚した妻と同等の権利を持っているが、1950年代当時は重要視されていなかった。一方ドリスは合法的な結婚証明書を持っていたため、財産を統制できたのだろう。
しかしながら、チャーリーの2番目の妻であるジェラルディン・スコットとの結婚は離婚で終わったわけではないので、ドリスとの結婚は重婚となるのだ。チャーリーとドリスがメキシコで結婚したことがこの点でわかる。したがってこの証明書の正当性には疑問の余地もある。

アニタ・J・ディクソンはレベッカとのインタビューの中で、レベッカとの結婚が離婚に終わったのかどうかという点でも疑問を呈している。
「わたしはチャーリーと離婚したのかと問われると、していないのではないかと思うわ。アディお母さんが離婚を手配したのだけど、彼女はそれがすんだと言ってくれただけなの。私はそのとき若かったので、チャーリーがお母さんの許しをもらって結婚したから、チャーリーが去った後、お母さんが離婚の手続きもできると思っていたの。」
後にレベッカは代理人に依頼して、チャーリーとの離婚の記録を国家捜索組織を通じて探させたが、何も見つからなかった。



(続く)


2007.12.22 Llew Walker
日本語訳 よういち



This text is from "Bird Lives" translated into Japanese,
with permission granted by Llew Walker.

Permission granted by Doris Parker under license
by CMG Worldwide Inc. USA


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