Bird Lives: 没後 その4 (改訂第2版:草案) この文章は、素晴らしいパーカー・トリビュートサイト"Bird Lives"掲載の文章を、著者Llew Walkerさんのご好意により、私が和訳したものを掲載したものです。義務教育レベルの英語力で「エイヤァ」と訳したものですので、問題のある個所がいくつもあろうかと思います。間違いをご指摘いただけると幸いです。 また資料的な使い方をする場合は、くれぐれも原文を参照いただきますようお願いします。 (よういち) 原文はこちら:"Bird Lives: The End and After" * 論争は今になっても続き、明快になってはいない。2005年の春に大々的に宣伝されたキングのサキソフォンの売却は、エステートが否認を表明したため結局お流れになった。そして今のところはカンザスシティのアメリカン・ジャズ・ミュージアムで公開されている。そこが落ち着くにふさわしく、結局はそこに落ち着くのであろうというのが一般的な見方だ。 ミズーリ州ブルー・サミットのリンカーン共同墓地にチャーリーの墓はある。ここは実際にはカンザス・シティに位置していない。だからカンザス・シティに埋葬しないようにという最低限のチャーリーの希望は守られている。しかしながら彼は3つの違った墓を持つことになった。 あたかも神秘を守り続けようとしているように、最初の墓は日付を間違えている。この間違いはワトキンス葬儀場での葬儀が3月23日に行われたことが関係すると言われている。この墓石は盗難にあい、郵便ポストを介してオークションにかけられたらしいが、いつ頃のことかははっきりしていない。 2つ目の墓は少なくとも日付を間違えてはいなかった。これはマックス・ローチとチャーリー・パーカー記念財団によって設置されたものだ。このチャーリーと母親の青銅のプレートは1992年に盗まれた。その後の行方ははっきりしていない。 現在の第3の墓石は1994年にカンザス・シティ・ジャズ委員会によって設置された(この委員会は今は活動していない)。あいにく、この墓石に彫られている絵はテナー・サキソフォンだ。 最近、チャーリーの遺体を18番街とヴァイン通りの地域に移そうという議論が起こっている。だがこれには多くの反対があり、一時的にたな上げされている。 墓の敷地の荒廃からは、少数の人の多大な貢献で何度となく維持されている。1960年代のキャロル・L・ジェンキンスやロバート・ホプキンスのこれらの写真がそれを証明している(原文サイトを参照)。これらの写真は2番目の墓石が立つ前に移されたものだ。 ジョージ・ウェインの言葉で締めくくろう。 「・・・チャーリー・パーカーの3度目の出演を私はブッキングした。これは1954年(1955年?)の3月9日から始まる週末の仕事だ。チャーリー・パーカーは信用できないという事実はあったが、前のバードとの契約では素晴らしい演奏をしてくれて、特に問題も無かった。(・・・)だからストーリーヴィルでの最初の晩のギグの時、バードが姿を現さないので困ってしまった。(・・・)私はクラブをうろうろしながら客を帰そうかどうか考えていた。誰かがやってきてバードが電話をかけてきたといったので、私は急いで受話器を取った。私が聞いたのは録音されたメッセージだ。”今朝イプスウィッチの沼地で見つけた赤い羽の切り尾鳥が・・・。” オーデュボン協会に電話をかけた、従業員の悪ふざけだ。 バードはその夜現れなかった。次の日私は新聞でチャーリー・パーカーがスタンホープ・ホテルのニカ・ドゥ・ケーニグスウォーター男爵夫人の部屋で死亡したことを知った。彼は34歳だった。 彼をニューポート・ジャズ・フェスティバルへ連れて行き、彼の天才へ敬意を表する機会を得ることはできなかった。何にせよ、最後の演奏に彼が来ることができなかった弁解に対して、何も言い返すことはできない。」 Myself Among Others - George Wein. Da Capo 2003 (完) 2007.12.22 Llew Walker
日本語訳 よういち
This text is from "Bird Lives" translated into Japanese,
with permission granted by Llew Walker. Permission granted by Doris Parker under license by CMG Worldwide Inc. USA
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