Bird Lives: 幼年時代 その3 (改訂第2版:草案) この文章は、素晴らしいパーカー・トリビュートサイト"Bird Lives"掲載の文章を、著者Llew Walkerさんのご好意により、私が和訳したものを掲載したものです。義務教育レベルの英語力で「エイヤァ」と訳したものですので、問題のある個所がいくつもあろうかと思います。間違いをご指摘いただけると幸いです。 また資料的な使い方をする場合は、くれぐれも原文を参照いただきますようお願いします。 (よういち) 原文はこちら:"Bird Lives: Childhood" * チャーリーの初期数年間の詳細は記録に残っていないが、彼の母は、彼女が働きに出ているときに彼をカトリック・スクールに通わせたと言っている。今はそれを確認できる記録は残っていない。とはいえアディによると、カトリック・スクールはチャーリーに影響を与えて、彼はアディに宗教上の事柄について正したものだと述べている。彼女がバプティストだったのに、チャーリーをカトリックの学校に入れた事実は、彼女が必要にせまられて学校の選択もままならなかったことを示している。見方を変えると、ダクラス学校の幼稚園に入る前に少しの間だけしかカトリック・スクールに通わなかったので、チャーリーへの宗教的影響は最小限にとどまったと言えるだろう。またよそで述べられているように、チャーリーがそこの聖歌隊で歌っていたということも疑わしいだろう。 チャールズ・シニアはその大半は家を不在にしていた。彼女がお金を稼ぐためになんらかの託児施設を使う必要はあっただろう。さらに言えば、チャールズ・シニアは、経済上も実際上もたぶん支援をあてにできない存在だったのではなかろうか。しかしながらフリーマン地域は当時人種隔離されたところだったので、小さい黒人の子供を受け入れてくれる学校を探すのは困難をきわめたと思われる。学校の記録にはチャールズ・シニアの記載はなく、彼が不在がちだったのを立証している。1924年のチャーリーに関する学校の記録によると”入園を見込んだ学校はダグラス学校”と明記されており、1925年9月14日、チャーリーが5歳に達したころ、ここの幼稚園に入園したとのことだ。チャーリーの2年間の通園記録に対して母のサインが残されている。しかしその翌年以降はサインは見られない。このことからもパーカー一家はカンザス州からミズーリ州へ引っ越したのだということが確証できる。 彼がダグラス学校に入ったとき彼は5歳になっていた。学校の記録では彼の生年月日は1920年8月29日ではなく8月10日になっていた。これは単に書き間違いだろう。親が学校の記録を見ることはまれだろうから、そのままになっていたのではないか。 ただ、1924年と1926年に書かれた校内調査票の中に、明らかな間違いが見られた。この校内調査票は学校の生徒達に渡されて、彼らが地元の各家庭を訪ねてまわり、その家の子供と通学状況を調べたものである。 起こりがちな間違いなのだろうが、両方の調査票の中にある、当時チャーリーの住んでいたフリーマン通り852番地の欄には、「フランク・パーカー」という名前がチャーリーの兄として記載されている。この人物はこの調査票以外に記録されておらず、学者はこの人物を兄と見なしたのだろう。間違いは、名前、年齢、生まれた州にまで及んでおり、これに従えばジョンは本来とは違う学年に位置づけられてしまうことになる。 なぜこの間違いが1926年になっても修正されなかったのか、疑問は残る。仮にこれがジョンなのだとしたら、1920年と1930年にワシントン大通り844番地でエラ・パーカーとすんでいたという公式な市民調査票の方に間違えがあるということになる。エラは保護者として、ジョンが学校に入学するためのサインを名簿票につけている。フランク・パーカーという人物の存在は謎のままだ。 パーカー一家は1927年の夏に、カンザス州からミズーリ州へ引っ越した。だがチャーリーの学校の記録にはちょっと妙な点がある。この時期以前にカンザス州を引っ越そうとした形跡があるのだ。アディは2年間限定の在籍申し込み票にサインをしている。この申し込みは稀なことで、普通は子供が学校に入学するときに一度だけ申し込んで済ますものなのだ。つまりアディは当初、1926年の終わりにはチャーリーを引き取って引越しをしようとしていたのではないか。しかしそれが実現できず、次の9月まで再度在籍の申し込みをしなければならなかったのではないだろうか。 一昔前のチャーリーの幼年時代に関しての見解の中で、パーカー一家が州を移った時期は漠然としていた。最近の見解によると、1931年になってから移ったということだ。チャーリーの最初の妻レベッカ・ラフィン(Ruffin:別のところで述べられているような”Ruffing”という名前ではない)は、カンザス州のチャールズ・サムナー小学校での彼の卒業証書を見たと言っており、そのためチャーリーがミズーリ州に移ったのは1931年頃だろうと見なされていた。 だがカンザス州のサムナー校は1905年設立以来ずっと高等学校であった。実は、サムナー校は2つあるためにこの混乱は起こっているのだ。ひとつはカンザス州にあり、もうひとつはミズーリ州にある。チャーリーは当時年齢が達していないために、カンザス州のサムナー高等学校には入学できない。だが、カンザス州のサムナー高等学校のすぐ隣にはダグラス小学校がある。この小学校はチャーリーが通っていたことのある学校だが、ある時点でサムナー高等学校に併合されたのだ。これが混乱を生んだ原因かもしれない。そして実際はチャーリーはカンザス州を転出して、ミズーリ州のペン学校で6年間を過ごした後、ミズーリ州のチャールズ・サムナー校で1年間過ごして、そこの卒業証書を得た。おそらくレベッカはこの証書を見たのだろう。チャーリーのミズーリ州への転出時期はダグラス小学校とペン学校の記録によって立証できる。1927年の夏の時期にチャーリーは家族とともに州を移ったことがわかるのだ。 ミズーリ州カンザスシティ、ペン通り4239番地にあるペン学校に、チャーリーは1927年の秋に編入した。パーカー一家はワイアンドット市3527番地に住んでいたという記録が学校には残っている。ペン校はウェストポートという白人富裕地区にあった。かつては奴隷入植地であるステップトゥーと呼ばれた地域で、小規模だが繁栄した黒人共同体もあった。ペン校はミシシッピ―川以西に最初に建てられたアフリカ系アメリカ人のための公立学校で、校舎の2つの教室で多くの黒人の子供を教えたことで、深い敬意を払われていた学校である。ジェレマイア・キャメロンはこの学校の思い出を述べている。 「食堂や運動場はなかったが、古めかしいコップや鈴があった。」 そして学校で彼の後ろの席に座っていたチャーリーについても思い出す。 「チャーリー・パーカーの印象といえば、生徒にしてはさほど軽薄でなく、・・・やさしく、おとなしい語り口の人だったことを覚えている。だけど、彼はウェストポートの住人ではなく、私と同様ブロードウェイ36番街の下手にある管理宿舎に住んでいた。彼はとてもやさしくて、当時冷たい白人地域に囲まれて小さな黒人共同体が存在した、かつてのウェストポート地区の特徴でもある同朋意識を持った人だった。」 この学校は1955年に廃校し、1967年に焼失してしまった。かつて校舎が建っていた場所は今は公園になり、そこには学校の設立と歴史を記した銘板がある。 (続く) 2005.11. 6 Llew Walker
日本語訳 よういち
(初版:2005. 6.14) This text is from "Bird Lives" translated into Japanese,
with permission granted by Llew Walker. Permission granted by Doris Parker under license by CMG Worldwide Inc. USA |