Bird Lives: 幼年時代 その2 (改訂第2版:草案) この文章は、素晴らしいパーカー・トリビュートサイト"Bird Lives"掲載の文章を、著者Llew Walkerさんのご好意により、私が和訳したものを掲載したものです。義務教育レベルの英語力で「エイヤァ」と訳したものですので、問題のある個所がいくつもあろうかと思います。間違いをご指摘いただけると幸いです。 また資料的な使い方をする場合は、くれぐれも原文を参照いただきますようお願いします。 (よういち) 原文はこちら:"Bird Lives: Childhood" * 1914年、シカゴに住んでいたチャールズ(・シニア)は、とあるイタリア女性と関係を持ち、ジョン(もしくはフランク)・A・パーカーという息子を持った。彼はのちに「アイキー」という愛称で呼ばれるようになった(※4)。母親についてはなにも分かっていない。ジョンとその父親からいなくなっている。その後まもなくチャールズはアディー・ボクスレーと知り合い、1916年に結婚した。どこで式を挙げたのか分かっていないが、おそらくシカゴでであろう。一家がカンザス州に来る前はシカゴに居て、また式を挙げる数年前にジョンはシカゴで生まれたのだから。 その後チャールズは、チャーリーがおよそ13歳の頃に家族のもとを離れている。だが、1930年代にカンザスシティのとあるクラブで、レスター・ヤングが偶然彼に会ったことを述べているので、カンザスシティには残っていたようだ。1940年にチャールズ・パーカー・シニアは、ある女性と口論になり刺されて死亡した。アディによれば彼女も一年後にアルコール中毒で死んだとのことだ。 ところで、彼の死亡した年は1937年でチャーリーが17歳の時だとチャーリーもアディも共に言っている(※3)という異論があるが、チャック・ハディックスとケン・ベイルがこれについて正確に検証している。チャーリーが父の葬儀のためカンザスシティに戻った時期は、彼がバンジョー・バーニー・ロビンソンの楽団でツアーをしている1940年のことだと分かったのだ(訳注:1939年の間違い?)。 パーカーの3番目の妻ドリス・シドナーはチャールズ・シニアについて「私の見たところ、かれはしがないギャンブラーかヒモのようだった。」と言っている。彼の死亡記録は明るみにされてはいない。彼についてはアディは「踊りができて、学があって、ピアノも弾けた。でも大酒飲みでした。」と述べている。 チャールズの最初の息子であるジョン・A・パーカーは、1914年6月13日にイリノイ州シカゴで生まれた。彼が生まれた当時チャールズは28歳で、おそらくチャールズは息子に自分の兄弟の名前を付けたのだろう。 チャールズがアディのもとを去った時、彼はジョンを連れて行ったものと以前は信じられていたが、1920年と1930年の市民調査票からの調べでそれは否定されている。ジョンは当時カンザス州のワシントン大通り844番地で祖母であるエラ・パーカーと住んでいたことが両方の記録から分かっているのだ。このことはチャーリーが生まれた頃ジョンはすでに一家を離れていたということを意味しており、アディが2人の息子を平等に扱ったのでジョンはチャーリーの義理の兄だということは分からなかった、というアディの証言に反している。アディがこのような証言をしたのはジョンへの配慮と考えられる。とはいえ、1985年のカムラ・アジャイとのインタビューで、ジョンは義理の兄弟であるパーカーとの絆は強かったという旨の発言をしている。 「週末になるといつもミズーリ州に住むバードを訪ねたものです。そして一緒にルーシーズ・パラダイスやモホークなどのクラブに行きました。育ち盛りのパーカーの好物は、豆類、とうもろこしパン、そしてレモネードでした。」 成人したジョンは、カンザスシティの郵便局で働くようになる。 チャーリーの母、アディはこう言っている「私は人生の中で2つの都市にしか居ませんでした。2州のカンザス・シティです。私はどちらの町も動こうという気はありませんでした」。実のところ1930年の市民台帳によれば、彼女は両親と同じオクラホマに生まれている。彼女の家系についての情報は極わずかだが、同州のムスコギーで生まれたという資料がある。ここはとりわけジェイ・マクシャンとドン・バイアスが生まれた町でもある。調べうる限り、他にこの一致について言及している文献はない。ということは結局この情報は間違っているのかもしれない。加えて、ジョンへのインタビューの中で彼は「シカゴからアディと一緒にカンザスシティに来た」と述べており、先ほどとは正反対の証言をしている。おそらくアディはイリノイにも住んでいたことがあり、多分家族と居たのだろう。 アディ・パーカーは1891年に生まれた。アフリカ系アメリカ人とチョクトー族の家系で(※5)、まぎらわしいことに彼女の旧姓は”Bailey”、”Bayley”、”Boxley”、”Boxely”など、いくつか種類がある(※6)。”Addie Churchill”と記している文献もひとつだけあった。公文書によれば、彼女はミドルネームとして”R”や”B”または”A.R.”と明記している。このような多様な名前と出身地と生年月日の表記のため、彼女の存在を確認できる公の形跡は1910年までなく、この時期になってから”Addie Boxley”という名前でオクラホマ州のピッツバーグ郡で、モリス一家の使用人として働いているという記述に初めて突き当たる。アディの姪によれば、この時アディは18歳だったと認めている。 アディが市民台帳に載っていないのは、彼女が意識的に避けたためかもしれない。または、チョクトー族とアフリカ系アメリカ人との間に生まれた、貧しい彼女とその家族は、世間の目から隠れた存在で、調査員が見逃したのかもしれない。 また”Addie Bailey”や”Boxley”という名前は1910年以前には存在していないようだが、チャーリーが生まれるまで代わりに他の名前を使っていたのではないだろうか アディの言うことには、夜はウエスタン・ユニオン電信局の清掃婦をしており、日中はハウスクリーニングの仕事に従事し、下宿人を受け入れて、また託児の仕事もしたということだが、1930年の市民台帳には彼女は働いていないとの記述であった。彼女は50歳代早期に看護婦としての実務的な訓練を受けて、隠居するまでカンザスシティ病院で働いていた。ゲリー・ギディンスの本で、彼はアディのことを非常に辛抱強い女性のように表記している。「彼女は美しく、確固とした気高さを持っていると多くの人が語っている」。彼女の品行方正な傾向はロブ・ライズナーの本(※7)の自身の章の中でも見て取れる。そこでは彼女はチャーリーが医者になりたがっていたことに2度言及している、彼女自身は看護婦になったわけだが。 アディとチャールズとジョン・パーカーが、カンザスシティのワイアンドット市に移ったのは1919年頃である。カムラ・アジャイとのインタビューでジョン・A・パーカーは、ワシントン大通り844番地の家に、皆で祖母のエラ・パーカーと住んでいたと言っている。また9番街とスプリットログ通りに位置する家にも住んでいたとのことだ。そしてチャールズ・パーカー・ジュニアの生まれた、ワイアンドット市フリーマン通り852番地にも住んでいた。これら3つの居住地のうち、最初にどこへ住んだのかはっきりしないのだが。スプリットログ通りの家の番地はわからず、残りの2つの家は解体されて長いこと経っている。現在、フリーマン通り852番地は空き地で、ワシントン大通り844番地のエラ・パーカーの家のあった場所には住宅がつい最近建てられた。 パーカー一家は裕福ではなく、フリーマン通りはカンザス州カンザス・シティ北西のはずれにある、黒人が主に居住する未舗装の通りである。1920年の市民台帳の記録(※1)によると、(パーカーが生まれたと確認されている)フリーマン通り852番地にパーカー一家は1920年1月1日の時点では存在していないと記録されており、おそらくその後年内に移ってきたのであろう。この時期は大不況のきざしの見え始めた頃で、仕事の口は少なくなり、家計は苦しくなっていく。一家は仕事を見つけるために引っ越したり、援助を受けるために親戚のそばに移ったりする必要に迫られたのではないだろうか。チャーリーの幼年期の引越しはこういった状況が反映されているのだろう。パーカー一家はカンザス州とミズーリ州の、少なくとも7ヶ所の家に住んでいたことがあると確認できる。 (続く) ※1:市民台帳は不正確なことで有名だが、できるだけパーカーに関する典型的な伝承に矛盾していた場合のみ、私は資料に使った。一方、市民台帳に記載されていなかったからといって、それが謎だとかごまかしだとか言うこともできない。つまり当人はその晩に限って在宅していなかったとか、さまざまな理由で留守にしていたのだ。市民名簿の目的は人々をスパイすることではなく、主に経済学上の動機で一般的な属性情報を集めることが目的であることを思い出してほしい。 ※3:Bird's Diary - Ken Vail - Castle - 1996 ※4:少し想像を働かすと次のことが推測されるのではなかろうか。幼いチャーリーはたぶんフランキーのことを「アイキー」と発音して、家族の中でそれが定着したのではないか。 ※5:雑学好きな人のために(というよりもほとんど英国ラグビーファンのために)。チョクトー族はアフリカ人奴隷を所有していた。そしてその奴隷たちの中の一人がウォーレス・ウィリスという「Swing Low Sweet Chariot」を1840年に作曲した人だ。 ※6:ラフィン一家は彼女の名前を”Boxley”または”Boxely”と述べていたが、チャーリーの出生証明には”Bailey”と表記されている。しかし、チャーリーのパスポート出願書には彼は”Boyley”または”Bayley”と記載している。 ※7:Bird: The Legend of Charlie Parker - Robert George Reisner - Citadel 1962 2005.11. 6 Llew Walker
日本語訳 よういち
(初版:2005. 6.14) This text is from "Bird Lives" translated into Japanese,
with permission granted by Llew Walker. Permission granted by Doris Parker under license by CMG Worldwide Inc. USA |