Bird Lives: 幼年時代 その1
(改訂第2版:草案)


この文章は、素晴らしいパーカー・トリビュートサイト"Bird Lives"掲載の文章を、著者Llew Walkerさんのご好意により、私が和訳したものを掲載したものです。義務教育レベルの英語力で「エイヤァ」と訳したものですので、問題のある個所がいくつもあろうかと思います。間違いをご指摘いただけると幸いです。
また資料的な使い方をする場合は、くれぐれも原文を参照いただきますようお願いします。 (よういち)

原文はこちら:"Bird Lives: Childhood"


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チャールズ・パーカー・ジュニアは、1920年8月29日(日)の午前1時45分に、カンザス州カンザス・シティのワイアンドット市852フリーマン通りで、アディとチャールズ・シニアとの間に生まれた。
彼が生まれ育った時期の社会情勢は、彼の成長に密接に関わっている。しかしながら、彼が生まれてからの十年間を理解しようとしても、ずいぶんと複雑であることが分かる。彼の家族や友人からかき集めることのできる情報は少なく、間違っていたり不正確だったりするものもある。そのため、ほとんどの評論家はこの時期の言及を飛ばしがちであり、パーカーはさらに謎めいた神話に包まれたミュージシャンに仕立て上げられてしまう。彼は1930年代後半から1940年代にかけて、どこからともなく現れた(Out of Nowhere)ミュージシャンであるかのように。

Paris on the Plains”で知られる通り、カンザス・シティはパーカーの生まれた当時最も活気あふれる都市だった。トム・ペンダーギャストの放任主義政策のために”ジャズ・エイジ”カンザス・シティは、交易・商業、そして音楽、ダンス、酒の提供でにぎわっていた。時は禁酒法の始まった時期、のちには大不況期となったが、カンザスは仕事のないミュージシャンも仕事にありつき、精を出すことのできる場所であった。各クラブが一晩中営業を続け、ぼったくりや賭博、売春は役人にも大目にみられた。
狂乱の1920年代、カンザス・シティの音楽は、ブルース、吹奏楽ビッグバンド、ラグタイム、これらが混合してスウィングの生まれた土地と考えられるようになった。第二次大戦の終わりまで、この音楽はアメリカ中の人々を楽しませ続けた。
だが仕舞いには、この地元出身、異才の少年の革新によって、とって代わられる事となった。

パーカーが生まれた年はオーケー・レコードが歴史的音源マミー・スミスの歌う「You Can't Keep a Good Man Down」「That Thing Called Love」を出版した年で、この曲とその後の「Crazy Blues」の曲がヒットしたことから、この時期アメリカの蓄音機産業界は黒人音楽、いわゆるレイス・レコードが金になると認識したものと見える。
またパーカーの生まれた月はマーカス・ガーベイがニューヨークでアフリカ帰還運動の催しを開いた月でもある。

チャーリーの父もチャールズ・パーカーという名前で、1886年12月ミシシッピ―州で生まれたアフリカ系アメリカ人である。テネシー州かアラバマ州生まれと記述する資料もある。
彼の母方の家系をたどるとジェーン・グッドロー(Jane Goodloe)もしくはグッドロウ(Goodlow)という、1835年10月に生まれたアラバマ州の女性に突き当たる。彼女は読み書きはできなかったがとても長生きで、彼女のひ孫にあたるチャールズ・ジュニアが1920年に生まれた時期も生きていた。ジェーンは5人の子供をもうけたが、エラ、デビッド、フローレンスの3名の存在のみ確認できている。1870年、ジェーンは夫を早くに亡くしたようで、3人の子供を養い家を切り盛りしたが、他の2人の子供と夫についての言及はない。
彼女の娘エラは1865年の1月に生まれ、1882年頃に聖職者ピーター・C・パーカー師と結婚した。そして27年の結婚生活の内に6人の子供をもうけた。そのうちチャールズ(・シニア)、ロッティー、ジョン、ベッシーのみが成人したらしい。ただ、ロッティーは20代前半に亡くなったようだ。

デビッドの経歴についてはなにも分かっていないが、フローレンスはジョン・テリーという者と結婚して、やはりジョンという息子を産んだ。彼は洋服の仕立て屋になった。

1900年、ジェーン・グッドローは、やはり夫を亡くした娘フローレンスと孫にあたるジョンと、カンザスのワイアンドット市内、20年後にチャールズ・パーカー・ジュニアの生まれた場所からさほど離れていない所で暮らしていた。同時期、エラは夫ピーターと4人の子供とともにアラバマ州で暮らし続けていたが、1909年前後にピーター・C・パーカー師が死去した。
そして一年後、グッドロー家の女性たちはまた一緒になる。当時70歳を超えたジェーンは自身の娘エラとフローレンスを、ミズーリ州ジャクソン郡の自宅に住まわせるようになった。この状況は20年後のチャーリーが育っている頃と似ている。3世代の家族が一緒に同じ住居に暮らしていたのだ。ジェーン、エラと3人の子供であるチャールズとジョンとベッシー、フローレンスと彼女の息子のジョンと。
グッドロー家の女性はいつも夫に先立たれるのが常のように見える。皆が未亡人となったのである。その図式はチャーリーの母アディー、そしてチャーリー自身にも引き継がれることになる。彼は4人の妻を残してこの世を去ったのだ。

チャールズ・パーカー・シニアはエラの長男で、1910年、彼が24歳の時にホテルのウェイターとして働いていた。彼の若い頃のことはほとんど分かっていないが、チャーリーはあるインタビューでこう述べている。
「彼が元気な頃は、サンタフェ、カンザスシティ、シカゴに向かう鉄道客車でウェイターをしていた。・・・ちゃんとした教育を受けていた人で、2つ3つの言語を話すことができたよ。(インタビュアー:何か楽器は演奏していたのですか?) いいや、彼は若い頃はダンサーだった。サーカスにいた・・・、TOBAの興行のサーカスだ。」
TOBA(Theatre Owners Booking Association)は、各地の劇場をまわる黒人パフォーマー専門の演芸興行組織で、白人の演芸に比べて儲けは少なく悪条件に見舞われた(黒人パフォーマーは「Tough on Black Artists/Asses :黒人アーティストをひどい扱いにする」と呼んでいた)。その人気は大不況期と共に衰えていくことになる。

このパーカーのインタビューが、チャールズ・シニアの演芸環境に関する唯一の記録であり、本当の事を言っているかもしれないし、違うかもしれない。このインタビューを聞くと、チャーリーは父のことを話すことにためらいを感じているように見える。それでもなお、彼の父はリングリングサーカスにも居たと、チャーリーは言い添えている。
ゲリー・ギディンスはチャーリーが発言をためらっていた事を確証している。「チャーリーは彼の父親については、簡潔だが、まぎれもなく何かを弁解するような口調で話していた」(※2)と彼は語っている。同様な意見として、オリン・キープニュースは「チャーリーはいつも子供時代の話になると口が重くなる」と指摘していた。

やはり、チャールズが芸人であるという確信は薄い。ホテルのウェイター、鉄道客車のウェイターもしくは料理人、アパートの管理人という確認できた彼の職歴と、芸人という職とは相容れないものがある。とはいえ、彼が音楽に覚えのある人物であったと示唆するものは充分にあり、また聖職者の息子として音楽の演奏や読譜を教えてもらったことは充分考えられることだ。この音楽的知識がチャーリーに伝承されたと考えても不思議ではない。

(続く)


※2:Celebrating Bird: The Triumph of Charlie Parker - Gary Giddens - Da Capo Press 1987



2005.11. 6 Llew Walker
日本語訳 よういち
(初版:2005. 6.14)




This text is from "Bird Lives" translated into Japanese,
with permission granted by Llew Walker.

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