Bird Lives: チャン・パーカー
(第2版草案)


この文章は、素晴らしいパーカー・トリビュートサイト"Bird Lives"掲載の文章を、著者Llew Walkerさんのご好意により、私が和訳したものを掲載したものです。義務教育レベルの英語力で「エイヤァ」と訳したものですので、問題のある個所がいくつもあろうかと思います。間違いをご指摘いただけると幸いです。
また資料的な使い方をする場合は、くれぐれも原文を参照いただきますようお願いします。 (よういち)

原文はこちら:"Bird Lives: Chan Parker"


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「彼が眠っているときに、彼の指が私の腕をつたって動いていた。まるで私がホーンになった夢を、彼が見ているようだった。」
~チャン・パーカー

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あらゆる「私の知るパーカー」の思い出の中で、チャン・パーカーの回想が私は一番好きだ。パーカーの回想に関する彼女の貢献は計りきれないと思う。なぜならそれが唯一、女性の視点から見たパーカーの詳細な見解だから。ほとんどのパーカーの文献は男性によってかかれており、当然男性からの視点でかかれている。だからチャンの意見は洞察が新鮮なのだ。

かつて「52丁目の女王」と評されたべヴァリー・デローレス・バーグ(チャン・リチャードソン:チャン・パーカー)はおそらく、1940年代後半から1950年代初期にかけて、この有名な通りに住むジャズメンを選び放題であったであろう。

彼女はヒップで聡明で美しく、この通りの仲間内のひとりであった。彼女は18歳の時にパーカーと知り合った(彼女はパーカーの妻達の中では、唯一彼をあだ名で呼んでいた)。彼女は彼の魅力に取り付かれたが、当初は肉体関係を持とうとはしていなかった。
「彼とはすぐに腹を割った親友になった。」
しかし、数年後には恋人同士となった。とはいえそれでも彼女が、あるミュージシャンの子を設け、また別の人と結婚と離婚を経るまで、一緒にはならなかった。その間バードといえば、ドリス・グリーン(シドナー)と結婚・離婚を経ていた。ドリスもパーカーとは正式には結婚していなかったのでは、とチャンは言ったことがあったが、
「そうしたら、ドリスはメキシコの重婚証明書を提示したの。それはバードの遺体を引き取る権利の効力があった」
とのことだ。

彼女は幾人かのミュージシャンと暮らしを経て、彼らは述べ5人の子供(※1)と彼女を養っていた。うち2人の子供は彼女の存命中に亡くなっている。夫の中では1人のみ彼女より生き長らえている。最後の2人の夫、バードとフィル・ウッズ(別のアルト・サキソフォン奏者)と暮らしているときの彼女の人生は、決して平穏ではなかった。2人の創造的で、魅惑的なミュージシャンと暮らすことは、彼女の自伝「My Life in E-flat」での描写よりもはるかに困難だっただろうと私は思う。

チャンの著書には、唯一バードの人間的側面の内密の描写が記されている。彼との思い出には苦々しさも感じされるが、疑うべくも無く彼女は彼を愛していた。年老いてフランスに亡命したときでさえ、彼女はバードの存在を感じ、声を出して彼と話していた、と言っている。

ジャン・ホーンのビデオ『The Bird』の中に素晴らしいエピソードがある。チャンが娘キムと議論したときの話だ。朝、学校に行く時間になるたびにキムは気分がふさいでいたもので、母が白人女性でありながら黒人男性と暮らしているのを気にしているのではと思い、チャンはそのことをキムに訊ねると、キムはこう言った。
「いいえ、お父さん(バード)が手を取って学校に連れて行ってくれたときに気にしなくなったわ。お母さん(チャン)が全然そうしてくれないのが嫌なの。」
そう、実のところバードは私が母親である以上に、父親らしくしてくれた、とチャンは敬愛しながら言った。子供は肌の色を区別したりはしないと、私は思う。
「彼の革新的・創造的ナンバーのひとつに『Kim』があるが、実の父ではなくても真に愛する子の、輝きと貴さを全て表現している」とチャンは言っている。

1988年、チャンはクリント・イーストウッドより彼の伝記映画『Bird』の技術顧問として呼ばれた。その映画の出来栄えについては明言をひかえるに留めたが、彼女としては、パーカーの人生の闇の側面が強調されすぎて、本当の姿を表現してはいないと思ったに違いないと私は確信している。ドン・ローズは彼女に映画の感想を聞いたところ、フンと鼻を鳴らし「彼のホーンをきちんと捉えていないわ」と言ったとのことだった。ダイアン・ヴェノーラの演技については、かなりチャンを美化していたように私は思う(彼女は映画の中でチャン役であった)。ヴェノーラは1988年のNY批評家協会賞助演賞を受賞した。

チャンは1999年9月フランスで亡くなった。彼女は、ほとんどチャーリー・パーカーの最後の妻として、彼の子の母としてのみ記憶されるであろうが、彼女はダンサーであり、作曲家であり、優秀なピアニストとして死の直前まで勉強をしていた。彼女はパーカーと正式には結婚しておらず、そのことがバードの死後の身辺整理時に逆風になった。財産譲渡の詳細は明らかにされていないが、チャンは彼のサックスを2本得ることができた。これらの楽器はのちに、オークションに出された最も高価なジャズの楽器となった。チャンはアクリルのグラフトン製サックスを1994年にサザビーに出品し、それは93,500ポンド(144,500ドル)で落札された(こちらも参照)。そしてつい最近、娘のキムはパーカーの名前の彫られた彼のキング製スーパー20を出品して、261,750ドルで落札されている(ガーンジーのページを参照)。彼女が義父の、しかもチャンが長いこと大切に保管していたサックスを売ってしまったのは奇妙なことだ。

(これを書いたのちに、家族間で反対があり、キングのサックスの売買がお流れになったということが確認された!今のところ進展は見られていない!)

本当にパーカーを愛する者であっても、彼の人生の真実については混乱している。ジョン・ホーナーのドキュメンタリー『Bird Lives』で、彼女はこう言っている。バードは家でくつろいでいるとき、クラシックしか聴かなかった。しかし彼女自身の著書にはこうある。彼の聞くものは堅いものが多かったけど、彼の良く演奏したケイ・カイヤーの「Slow Boat to China」や、割れたテナーボイスをよく誇張してまねしたマリオ・ランザの歌う「Be My Love」のレコードを買っていた。彼の購入したヒット直前のレコードとしては唯一、ペギー・リーの「Lover」がある。彼が繰り返し演奏して母が夢中になってしまったものだ。バードが何を聴いていたかはたいした問題ではないが、少なくともこの対立する言述からわかることは、家庭の中では彼はジャズを聴いてはいなかったことがうかがえる。おそらく、この事実はジャズが彼の生活に、もしくは彼の生活がジャズに、どのように位置付けられているかについて示すものではないか?

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「バードの死は誰の責任か? きっと彼自身と私にあるのだろう。けれども私は全ての冷酷な医師と、黒人という理由で乗せないタクシードライバーを非難する。彼を食い物にしたクラブ・オーナー達、レコード出版責任者と代理人達、興行マネージャー達を非難する。彼の音楽を理解しない批評家、拒絶した世間を非難する。これは精神の虐殺だ。」
~チャン・パーカー

「彼は・・・私の知るどの男とも違っていた。彼は2度結婚して、若い子供と古くからの習癖を持っていた。私は彼が好きになった。」
~チャン・パーカー

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注記: ガーンジーのオークションで驚いたのは、チャンによる修正が施されたロス・ラッセルの著書の校正刷りが展示されていたことだ。これが示すことは、チャンがこの本を校正しただけでなく、是認してもいるのであろうか? さらには、彼女所有の初版本には「チャンへ、愛と深い感謝と共に。ロス」という献辞が書かれている。彼女が元原稿にどのように修正をしていたのか、私は非常に興味がある! ギディンスの著書『Celebrating Bird』でも言及されているが、彼女はフランス版のラッセルの著書にも序章を奉げている。長生きはするものだ!

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「チャンはドリスよりは良かった。少なくともルックスはいいし、音楽とミュージシャンという者をわかっていた。」
~マイルス・デイヴィス



※1 パーカーの息子1人は流産してしまった。

My Life in E-Flat - Chan Parker University of South Carolina Press. 1993
Celebrating Bird: The Triumph of Charlie Parker - Gary Giddens Da Capo Press 1987
Bird Lives: Year 43 - Don Rose - Internet







2005. 8.14 Llew Walker
日本語訳 よういち




This text is from "Bird Lives" translated into Japanese,
with permission granted by Llew Walker.

Permission granted by Doris Parker under license
by CMG Worldwide Inc. USA


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