Bird Lives: 中毒 その1

この文章は、素晴らしいパーカー・トリビュートサイト"Bird Lives"掲載の文章を、著者Llew Walkerさんのご好意により、私が和訳したものを掲載したものです。義務教育レベルの英語力で「エイヤァ」と訳したものですので、問題のある個所がいくつもあろうかと思います。間違いをご指摘いただけると幸いです。
また資料的な使い方をする場合は、くれぐれも原文を参照いただきますようお願いします。 (よういち)

原文はこちら:"Bird Lives: Addiction"


*

ジョー・ジョーンズ~
「わたしが演奏者である限り、楽器がプレイできない時間は実につらいものだ。寝る時間が必要なことはわかるけど、一日に26時間は演奏したいね。演奏できないのなら、音楽に近寄りたくない。その場に居座っていると手のひらに汗がにじんでくる。本当につらい思いをする。また若者にとって演奏する機会を得ることができないのも、つらさのひとつであり、心を奮い立たせようと若者が麻薬におぼれてしまう原因のひとつなのだよ。」

「知ってのとおり、私の体には悪いところがたくさんある。心臓の専門医にかかって、心臓を楽にしてもらうのに100ドル払っているが、彼に治療してもらっても良くならない。心臓はいまだ悪いままだ。胃潰瘍の先生には潰瘍を落ち着かせるために75ドル払っているが、これも良くならない。ところが、とある街角の暗い路地に男がいて、5ドル渡して薬をもらうと、心臓の病気も胃潰瘍もすっかりなくなり、すべての不調がふっとんでしまうんだ。」
~チャーリー・パーカーがウォルター・ビショップに語る

中毒という行動について考えるなら、チャーリー・パーカーにとっての中毒の対象はまずは、サックスを吹くという行為だったといえそうだ。
何を差し置いても楽器を演奏することが、13歳に楽器を手にして以来、生涯通してチャーリーの好きなことであった。この耽溺の方は偉大であるがゆえに、逆にもう一方の習癖の方が悪名高くなってしまったのだ。ジョー・ジョーンズの引用が暗示するように、「演奏休止期間」があったことが、大きな問題をチャーリーにもたらしたと思う。彼の生活の輝きと混乱、これらの2つの側面が不安定に揺れ動いていた。そしてたぶん、これがチャーリー・パーカーが残した謎を説明する鍵にもなるであろう。

チャーリーの人生の輝かしさと怪奇さを理解しようとすると、この天才と破滅、崇高さと絶望のバランスはきわめて危険に見える。これはたやすく平衡を保っているのではなく、不安定に互いにバランスを取り合っているのだ。だが、平衡点を見つけようとすると、自然で温和な解決にはならずにかえって破滅のもとだ。天賦の才能と毎日付き合っていくことはできない。彼の人生の中で肉体が蝕まれていくことについてはよく述べられていることだが、批評家はより扇情的な彼の習癖を取り上げるのを好み、彼が演奏自体に取り付かれていたさまを取り上げることはめったにない。彼が明らかに演奏に取り付かれていたという証言はいくつもある。

ジェイ・マクシャン~
「彼がしたかったことはひとつ、何の気兼ねなくずっとサックスを吹き続けたかったのだ。彼は疑う余地もなく、サックスが大好きだった。」

ジーン・ラメイ~
「バードと私が長く一緒に働いていたジェイ・マクシャンのバンドでは、空いた時間は常にジャムやリハーサルをやっていたようだ。こんなこと他のバンドでは例はなかった。電車でもバスの中でもジャムをやり、目的地につくとすぐにその地でセッションのできる、誰かの家を探していた。これはバードに感化されたせいだ。彼は新しいアイデアをいつもバンドに持ち込むので、バンドの皆はしきりに演奏したがったのだ。」

バスター・スミス~
「彼はいつもサックスを抱えていた。”私のベイビー、私のベイビー、いつも一緒だよ”てな具合でな。サックスを枕元に置いて寝ていたものさ。」

バディ・ジョーンズ~
「チャーリーがなぜそこまで速くサックスを吹けるのか、それは彼がほぼ1日24時間練習をしてきたからだと教えられた。彼の家の前を通って、サックスの音の聞こえてこない時はないと言われている。チャーリーは眠らないのだ。一度だけ彼とルームシェアをしたことがあるが、彼がベッドに入っているのを見たことがない。しばらくたってからちょっとだけ意識をなくすだけなのだ。」

バディ・コレット~
「彼が話してくれたことだけど、彼がジェイ・マクシャンで演奏していた時、当時はソロも受け持たせてもらえたのに、十分に演奏することができなかったと言うんだ。そこで着の身着のままクラブの外に出て、雪のカンザス・シティの中で、まだ屋内で演奏を続けているバンドの演奏の音にあわせて練習をしていたそうだ。氷点下の中、指などまともに動かないものだよ。でもそれが彼のしたことだ。ファッツ・ナヴァロや誰かしらが演奏しているときに外に出て行き、コーラスに合わせて楽器をいじっていたのだ。」

コレットは回想の中で、演奏場所がないことについてのチャーリーの動揺を語っているが、チャーリーが西海岸に出向いたときに、彼の滞在した場所で練習ができなかったので近くの公園に行って練習していた、ということもコレットは語っている。 「サンペドロの52丁目にあるサウス公園で彼はサックスを吹いていたのだ。彼は徹夜明けだというのに、ちょっと仮眠を取っただけで起き出し、公園に行ってアルトサックスを吹いていたのだ。公園でサッカーや野球をしていた人は、彼が何者で何を吹いていたのかわからなかっただろう。」
同様の例では、チャーリーが若いころ、カンザスシティのパセオ公園やスウォープ公園の空き地で演奏をして、夜をすごしていた。
「ギタリストのエファージ・ウェアが我々一同のコーチをしてくれた。循環、和音や進行に関して。」
ジーン・ラメイはこのように回想する。またバディ・コレットはこうも証言する。”ヤードバード”というチャーリーのあだ名は、彼が朝早く起き出し(もしくは、ほぼ夜通し外で過ごしたまま)公園で練習して、夜明けの鶏の声のように音が響いていたことから名付けられたのだと。

いつでもどこでも機会があれば、彼があらゆるバンドやミュージシャンのグループに飛入りしていたという言及は、入手出来うる文献からたくさん見つかる。ホテルの部屋やプライベートな集まりで彼が演奏している録音もたくさんある。あるクラブに出演をしているときに、その街の通りをぶらつき、他のクラブでまた演奏を始めたという逸話も多い。昼も夜も、チャンスがあれば彼は演奏していた。しかし、ジョー・ジョーンズの上記の言及どおり、ミュージシャンにとって一番がまんならないのが演奏をしていないときだ。そしてジョーンズが述べているように、演奏への渇望を癒す手段を若いミュージシャンは探すようになる。チャーリーも明らかに演奏に取り付かれていて、演奏していないときはとてつもなく抑圧されていただろう。結果そのことが原因で、最終的に決定的な中毒となる、薬物に走ったとみえる。

もちろんこれはある程度、チャーリーが薬物に走った理由についての短絡的な意見だ。薬物中毒の原因なんて数え切れないほどある。社会的理由、精神的理由、肉体的理由、このなかのいくつか、もしくは全てが影響しているのもほぼ間違いないだろう。だが振り返ってみると、どんな人生にも転機というものはある。識者達は1936年のハローウィンにパーカーが巻き込まれた交通事故がその転機であったと見ている。パーカーは痛みを和らげるためにモルヒネを処方されて(マリファナがいっぱいに入った枕も彼は持っていた!)、ベットに寝たきりの状態。これが自体つらい出来事だったことに加えて、さらにサックスも吹けない状態だったであろう。カール・ウォイデックは著書「Charlie Parker: His Music and Life」の中で、彼の当時の事に関してレベッカが電話で語ったことをこう記述している。
「(回復してから)3ヵ月後にチャーリーはカンザスシティの医師に会い、医師は彼にこう言いました、これはわたしは後に知ることになったことですが。チャーリーは脊柱と肋骨の痛みを和らげるためにヘロインを使わなければならなかった。そうせざるを得なかったのです。だから彼は1937年7月まではヘロインを使ってはいませんでした。・・・彼(医師)はまたこう言いました。・・・チャーリーは今後も脊柱と肋骨の痛みを無くすためにヘロインを使わなければなりません、と。」
この医師は薬物中毒について明らかに経験不足だっただろう。油分の多いものをいっぱい食べさせてくださいなんてことも、レベッカに言ったのだ。これがチャーリーにとっての転機であったかどうかは、何にせよあいまいだが、この事故はほぼ間違いなく重要な出来事であったろうし、薬物注射のやり方をチャーリーが覚えたのもおそらくこのときであったろう。

(続く)







2005. 8.27 Llew Walker
日本語訳 よういち




This text is from "Bird Lives" translated into Japanese,
with permission granted by Llew Walker.

Permission granted by Doris Parker under license
by CMG Worldwide Inc. USA


ホームへ  BIRD'S NEST メニューへ   Back | Next