続・バードは別格
~とどのつまり、パーカーの何が気持ちいいのか~



私にとってチャーリー・パーカーはジャズ界の中でも別格のミュージシャンです。
正確に言うとパーカーのやっている音楽は他のジャズメンのやっている音楽とは別のジャズだとおもっているのです。

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パーカーが出現する当時、他のジャズメンは音を持って人々を楽しませ、感心させ、興奮させました。
各ジャズメンの個性的で練り上げられた楽器の音色、美しく構成されたメロディ、カラフルなバンドの響きを楽しませました。人々をスイングさせる、ダンスの良き伴侶でもありました。
またその演奏は、雄大な風景、星空、恋しいと思う気持ち、悲しい思い、などなどを思い浮かべさせ、演奏の持つ叙情性・叙景性で雰囲気を盛り上げ、人々をうっとりさせもしました。
それが当時までのジャズのまっとうな楽しみだったのではないでしょうか。

そんななか、パーカーが出現したときにジャズ界に革命が起こったと言われています。

どういう点が革命だったのでしょう。
徹底的に身体的な快楽を生み出すための方法論が実証された点が革命だったのではないかと、私は思っています。
その快楽は、叙情性・叙景性を楽しむといった行為から、さらに下層領域の快楽で、煙草がうまい、メシがうまい、酒で酔っ払う、ひとっ風呂浴びてサッパリする、スポーツで汗を流し爽快になるといった、より根源的で原始的な事象と同じ層(レイヤー)の快感を生み出していると思います。

当時はパーカーと同じ方向性を志向していたプレイヤーが幾人か居たと思います。ディジー・ガレスピーやケニー・クラークなど、ビ・バップをパーカーと共に創り上げていったメンバー達です。ただこの方向性の音楽を完全なものにして聴き手の深層レベルに最大限の効果をあげることのできたプレイヤーはパーカーだけだったのではないでしょうか。

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ところで、「ビ・バップのスタイル」だとか「バップしている」とか「バピッシュなソロ」などよく言われます。これらの言葉が明確に説明されているのを見たことないのですが、結局「バップ」とは何なのでしょう。
いろんな意見はあると思うのですが、わたしはバップをこんな風に捉えています。
バップというのは音のアクセント・コード(ハーモニー)・メロディなどを使って音楽の重力や慣性、加速感などの気持ち良い運動的刺激・躍動感・緊張感を、聴き手(ときにはプレイヤー自身の?)身体に向けて与えることを目的とした方法論で、それは演奏の場にも独特の空気感をもたらす、とこんな感じです。
そして、このバップをとことん追求する演奏スタイルがビ・バップだと思っています。

身体的な快楽といえばスイング・ジャズの時代にも「スイングする」という行為がありました。「スイング」も当時のジャズの重要課題であったとは思いますが、まだビ・バップほど徹底して快感を生み出す手段に行き着いてはいなかったように思います。また、聴き手も自らがダンスすることで身体的快感を補っていたのではないでしょうか。

さて、パーカーを始めとする'40年代のビ・バッパーはどのように身体的な快楽を作り出していったのでしょう。まずは当時のビ・バップの現場で起こった現象を見直して見ましょう。

まず、パーカー達はコード進行を極端に細分化して複雑に再構成しました。
細分化する目的はなんだったのでしょう。私はこんなふうに捉えています。
コードは聴き手の身体的緊張・緩和の素で、コードごとに身体に受ける緊張度合いの性質が異なり、その組み合わせ次第で音楽にとてつもない推進力がでてきます。音楽の重力や慣性、加速感を生み出す秘訣のひとつがコード進行なのではないでしょうか。コード進行を細分化して再構成することによって蠕動動作で音楽を押し進めるような感覚を生み出し、いわば音楽のポンプのような役割をするようになったと思います。
次に、ドラムス側ではスイング・ジャズにありがちな「ドン・ドン・ドン・ドン・・・」というバスドラムで一拍ごとに律儀にアクセントを与えるようなことをやめて、シンバル・レガートを中心にした、ごくシンプルで曲の流れを邪魔しない、流れるように音楽を推進させるリズム体系に変えました。アクセントはメロディーやコードの兼ね合いの中で各プレイヤーがしかるべき時だけ加えていくスタイルになりました。そうすることで、せわしないほどテンポが上がり、アクセントのつけ方もまた音楽の推進力の大きな秘訣になってきたと思います。

こういったやり方をとることでジャズの演奏現場がどう変わったのでしょう。

テンポが極端に上がることでプレイヤーは急き立てられるような演奏になります。複雑なコード進行の中、並みのプレイヤーならソロが空中分解してしまいます。演奏をいかに持続させるか、手に汗握るスポーツ感覚の演奏になります。
そして、コード進行が細分化されることで、それを即興のフレーズでどううまいこと切り抜けるかという関心事が出てきます。幾千もの切り抜け方が生まれて、またコード自体もリアルタイムで置き換えが可能になり、その結果、即興で生まれるメロディーの可能性がぐんと拡がりました。コード進行は組み合わせ次第で永続性を持ち、このコードが来たから次はこれでいこう、と延々とコードの組み合わせは続き、それに呼応したフレーズが生み出され、音楽を推進させ続けます。その様子はまるで連歌の世界で、一種のゲーム感覚も生まれてきます。

ダンスもできない狭いクラブの中であっても、スポーツ感覚、ゲーム感覚、淀んだランナーズハイのような状態を(時にはクスリの力も借りて)皆で共有することで独特の空気感が生まれ、'40年代に怪しい雰囲気の漂うアンダーグラウンドのビ・バップの演奏の場が生まれたのではないかと想像は膨らみます。

とはいえビ・バップは多くの演奏能力を要求するため、そこに居る皆の身体へ恒常的に決定的な作用を与えるようなプレイをするものはなかなか居なかったのですが、唯一それを完璧にやり遂げてしまったプレイヤーがいます。それが、チャーリー・パーカーです。

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パーカーはとてつもないアップテンポの中、完璧なタイム感覚で細かいフレーズを吹くことが出来ました。次々と移り変わっていくコードをさまざまな芸術的なメロディーとアクセントで完璧に切り抜けていきます。それは聴く者に強度の快感をもたらします。その様子は例えてみればスポーツをプレイしたり観戦するのに少し近いかもしれません。

サッカーにおいては、ストライカーが驚異的な加速力でディフェンダーを振り切って、ななめ後方から来る絶妙な低めのロングパスが見事につながった瞬間を見たときの快感。
野球においては、ボールがバットの真芯に当たり手ごたえなくボールがはじき返され、思いがけず遠くへビューンと飛んでいったときの快感、またバット一振りで一直線にボールがすっ飛んでいく大ホームランを見たときの痛快さ。
ジョギングにおいては、ずっと走り続けるなか、自分の手足が連動して一定のリズムでグルーブするように動いているのを客観的に感じつつ次第に湧き上がる高揚感。
空手においては、鋭い上段回し蹴りが相手のあごに命中し、屈強な相手がへたっと力なく崩れ落ちたときの衝撃。
柔道においては、相手の懐にドンピシャのタイミングでスパッと自分の背中が入り込み、背負い投げを決めたときの快感。

このような瞬間、プレイヤーも観戦者も快感に身震いが起きるのではないでしょうか。それはニンマリとうれしくなるような感情というより、その衝撃に「うお~っ」と声を上げたくなるような身体レベルでの原始的な快感です。パーカーの演奏中はこれらと同じ層(レイヤー)の快感が永続的に続きます。
よくテレビでサッカーやバスケットボールなどの「ゴール名場面集」や野球の「ホームラン・ダイジェスト」といった映像を流すことがあります。本来は瞬間的な快感でしかないゴールやホームランの瞬間をいくつも集めてつなぎ合わせることで快感を連続的に味わうことが出来る実に爽快なものですが、パーカーの演奏ではその連続的な快感を、演奏の続く限り味わうことが出来ます。

パーカーの凄いところは、最初の一音から最後まで演奏の推進力、音楽の重力加速度や慣性モーメントを落とさずに演奏しつづけることで、身体のすみずみの奥襞に吸い付いてくるような何物にも代替の利かない快感を与え続けてくれるところです。

昔こんなおもちゃがありました。
いくつもの柱の建った土台の上で、2本のプラスチックのワイヤーをジェットコースターのレールのように平行に並べて曲がりくねったレールを敷き詰めて行きます。それが完成したらパチンコ玉を上から転がし、ジェットコースターのように玉が転がっていくのを眺めて楽しみます。
レールの配置の仕方はなかなか難しく、半端な坂の角度のつけ方をすると途中で玉が止まってしまいます。かといってずっと下り坂にしていても面白くないですし、加速度がつき過ぎて玉がレール外にすっとんでいってしまうこともあります。玉が止まったり脱線しないようにうまく上下左右のカーブをレールに加え、転がる玉にメリハリのつけた動きをさせて、ときには存分に加速度を与えて何回転もの宙返りループのようなレールを、クルクルと玉が回っていくように構成する。なかなか難しいですが、この組み立てがうまくいって目まぐるしく動き回るパチンコ玉を見るのはなかなか気持ちいいものです。
ともするとふっとんでしまいそうな勢いの玉が、しかるべきルートを一気に突き抜けていくこの快感は、パーカーの演奏の快感に通じるものがあると思います。

このおもちゃをビ・バップに例えて言うと、パーカーはパチンコ玉の推進力を落とさないようなレールの組み立てかたが異常にうまかったとおもいます。しかも演奏をしているなかリアルタイムでレールを組み立てていきます。
その様子は、まったく予想だにしない軌道でレールが敷きつめられつつ、同時に玉が転がってみれば、推進力も落とさず脱線もしない、実は最初からそうあるべき正しいルートだったように見えるという、因果律のおかしくなりそうな驚きをもたらします。

そして音楽の推進力がいつまでも落ちずに演奏が進んでいく結果、パーカーを聴く者たちには躍動的な身体的快感が満ち満ちて、演奏の場には緊張感の張りつめた状況になっていたことは容易に想像できます。こんなことのできるプレイヤーはパーカーしかいません。

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パーカーが演奏の推進力を落とさないポイントは今のところ2つあると私は思っています。

一つ目は「パーカーの躊躇のなさ」です。
パーカーは途中で逡巡することをしません。パーカーは次々とフレーズを繰り出しつづけますが、あるフレーズを吹いた時点ですでに次のフレーズを決めてしまっているようにも見えてしまう異常な反射神経を持っています。リードミスなどサックスを吹いた上でのミスはしたとしても、サックスを吹く以前に推進力が衰えるような躊躇をパーカーがしたという記憶が私にはありません。
特徴的なのがパーカーのソロの出だしです。いきなり全力で複雑なフレーズを吹き始めます。これが例えば、パーカーの時代以降に活躍しているハードバップの雄、ソニー・ロリンズの場合、特に'50年代中期以降からは、最初からいきなりバリバリとソロを吹き始めることはめったにありません。一音を断続的に小出しにしたり、ロングトーンを吹いたり、もしくはテーマメロディーの輪郭を軽くなぞるように吹きながら、徐々にアクセルを吹かしていきます。その良い例がアルバム「Saxphone Colossus」の有名曲「St. Thomas」のソロの出だしですね。
パーカーの場合そういった出だしの助走部分はまったくなく、最初の一音から推進力がMAXに達していたりします。良い例が1947年12月17日のDialレコードでのセッションの「Crazeology」のテイクCです。パーカーの初っ端の下降フレーズから異常な速度感でソロが始まります。
またロリンズはハードバップ期の特徴として、ソロを俯瞰的に見た上でのフレーズの布石といえるものを打つことがあります。布石を打つという行為は現時点の音楽の推進力を止めてしまうこともままありますが、ロリンズは推進力を一瞬落としてでも布石をうってソロの構成美の方を選択しているふしがあります。一方パーカーの場合、推進力を落としてまで構成美を選ぶようなことはしていません。ただ、聴いているほうが興奮するままパーカーのソロが終わって、あとから反芻してみるとすばらしい構成美になっていた、結果的に布石のようなフレーズはあった、というようなことはあります。
このようにパーカーは決めてしまったことをためらうでもなく、また推進力を犠牲にしてまで先読みをするでもなく、瞬間瞬間の音を躊躇なく放出していくプレイヤーであったとおもいます。それが推進力を落とさないポイントの一つです。

二つ目は以前にも書きましたが「パーカーの透明さ」です。
これはパーカーのあらゆる資質の中で一番大切なものだと、個人的には思っています。
パーカーは基本的に演奏に情感や叙情性などをこめるということをしません。また、個性をだそうとか構成美を狙うとかフレーズを装飾しようとか布石を打とうといった意識も感じられませんし、無意識にこれらが現れてくることもありません。
自分のカラーというものがパーカーにはなく、あくまで透明に澄み切っています。原始的な身体的快感を生み出すために、その身を音楽に預けているかのような演奏っぷりです。情感や叙情性もプレイヤーの思惑もソロの戦略もここでは夾雑物です。
実はこれはとても異常なことだとおもいます。
情感たっぷりに演奏すること、美しいフレーズで自分なりの個性で演奏すること、自分自身のカラーを持つこと、これらはビ・バップ以前の、そして以後のジャズの必須事項だったと思います。しかしビ・バップではこれらを意識的に求めることは推進力を犠牲にすることであり、身体的快感の抽出の純度を落とすことになります。
とはいえ、こういった夾雑物を捨て去りクリーンで透明な境地に到達するのは並大抵のことではないでしょう。ビ・バッパーでさえ個人のカラーが色濃く、装飾音で飾り付け、張り切ってブロウしようとします。自分のカラーを持つことは一般的にはジャズメン一流の証でもあるのですが、一方ではバップが求めている価値からの上位層・表層の価値でしかありません。
ただ、パーカーも引用フレーズを頻繁につかったり、おちゃめなところはあるように見えるのですが、パーカーを培ってきたバックグラウンドがパーカー自身の自我をすり抜けて溢れ出てしまったように思えるのはひいき目に過ぎるでしょうか?飛び出した引用フレーズは個人のカラーを押し出した結果には見えませんし、そのフレーズで音楽の推進力が落ちることもありません。
結局、完璧に透明な境地に達しているのはパーカーの他にはほとんどいないのではと私は思っています。またこの透明さが「パーカーの躊躇のなさ」を引き出しているようにも見えます。

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パーカーの完璧な奏法と「パーカーの躊躇のなさ」「パーカーの透明さ」、これらが統合することで、パーカー以外に誰も成し遂げたことのない、昔から現代にまで至るジャズとは一線を画した、ひとつのジャンルとしか言い表せないようなパーカー・ミュージックが創り上げられました。そして一度はまったらやめられない、あらぬ身体的な快楽をパーカーは産み出してしまいました。

よくパーカーが神様扱いされることがあります。根拠もなく形而上のモノ扱いしてしまう姿勢は私は好きではないですが、今までになかった人間の根源的な快楽を生み出した人に対して神様と言い切ってしまうのは、あながち間違ってはいないかな、とも思います。

ともあれ少なくとも一つだけ確実に言えるのは「バードは別格」だということです。



2004. 1.15 よういち

※この文章は、サイトのオープン時、最初に気楽に書きなぐった駄文「バードは別格」を、5年後の今に至り再構成したものです。正直今回の文章も説得力が弱く、充分に表現しきれない部分もおかしなところも多い未完成なものですので、今後に向けての「たたき台」と思っていただければ幸いです。
このテーマは、そう簡単にはいかない一生もののテーマです。




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