バードは別格  

 

私にとってチャーリー・パーカーはジャズ界の中でも別格のミュージシャンです。
正確に言うとパーカーのやっている音楽は他のジャズメンのやっている音楽とは別のジャズだとおもっているのです。


ジャズとは、身体感覚を音楽によって共有し、その生々しさ を味わうこと、だと私はおもっています (なんだか、後藤雅洋氏の著書のまんま受け売りですね。納得したつもりだから使ってはいるけれど)。
 その中でパーカーの音楽は、(少なくとも自分にとっては)完全に自分の身体と一致する音楽なのです。

Copyright (C) 1979 William P. Gottlieb
BIRD & Early MILES
パーカーの音楽は、リズムも、メロディーも、音色も、身体にジャストフィットします。心に響くのではなく、ダイレクトに体に響いてきます。自分の身体にフィットするからこそ、身体がダイレクトに喚起させられて、元気も出ようというものです。だからパーカーは何度聞いても飽きがこない。これがもし、お涙頂戴といった感情に訴えるような音楽だったら一回聞けばもういいや、となってしまうはずです。


パーカーは情感といった夾雑物になりがちなものをほとんど含めません。
ひたすら自らの身体とのコミュニケートに終始しているのではないか、というイメージがあります。
肉体とサックスが直結しているイメージです。そしてパーカーの身体は私の身体を共鳴させます。それでは他のジャズメンの音楽はどうなのでしょう。

良いジャズはやはり直接身体に訴えかけてくるものだとおもっています。
しかしながらパーカーとの最大の違いというのは、パーカーが身体との合一を突き詰めているのに対して、他のジャズメンは身体との違和感を呼び起こしているという点にあるのではないかとおもいます。
その身体的違和感の差異の微妙な加減が、身体的な快感を生み出します。

ウエイン・ショーターなんか良い例なんじゃないかとおもいますが、あのどこにもたどり着かないメロディーの浮遊感覚は、流されるような、身体から徹底的にズレまくっていくような気持ちよさがあるとおもいます。
ピアノの例でいうとウイントン・ケリーの弾むようなノリや、エディ・コスタの「のたのた」という感じのノリなど、それぞれ「なんだか俺らのノリとは違うなあ」と思いつつ気持ちよく楽しんでいたりします。  

もともと本人がそういう身体感覚の持ち主だったのか、通常の身体感覚との違和感を本人が発見して自分のものにしていったのかはわかりません。しかし自らの身体感覚を原点としてジャズの快感を生み出す術を磨き上げていったとみるべきだとおもいます。  

話はそれますが、現在のジャズで起こっている最大の問題点は、たぶん、良いジャズを生み出そうとする頭の良いジャズメンが、こういったことに意識的になりすぎて、違和感を求める際に、身体感覚を原点に出発することが難しくなってしまったという点ではないでしょうか。そのためあざとさが鼻に付く演奏ばかりが多くなってしまうのだとおもうのですが・・・。


いずれにせよ、「違和感」には何百、何千種類の形があったとしても、「合一」は一種類しかありえません。その意味で私にとってパーカーはただひとり別格のジャズマンなのです。
みなさんはこういう感覚、わかりますか?  

ビ・バップの時代なんか、パーカーがそのサウンドを完成させて、皆、絶望的になったでしょうね。いわゆるひとつのジャズが行き詰まってしまったとおもいますから。サックスなんて何個もニューヨークの河にほうりこまれたりして。そしてきっと若きころのマイルスあたりが最初に「こら、あかん」とおもって、方向転換をしはじめたように私にはみえます。クールな違和感を求める方向へ。

そのおかげで、かえってモダンジャズは花開くことになったんでしょうけど。たぶん。
 

 

1999. 2.14 よういち
 

 

Photos in this page is from "The Golden Age of Jazz" by William P. Gottlieb
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