Bird Lives: 青年時代 その5
(改訂第2版:草案)


この文章は、素晴らしいパーカー・トリビュートサイト"Bird Lives"掲載の文章を、著者Llew Walkerさんのご好意により、私が和訳したものを掲載したものです。義務教育レベルの英語力で「エイヤァ」と訳したものですので、問題のある個所がいくつもあろうかと思います。間違いをご指摘いただけると幸いです。
また資料的な使い方をする場合は、くれぐれも原文を参照いただきますようお願いします。 (よういち)

原文はこちら:"Bird Lives: Adolescence"


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ジェイ・マクシャンの話が示すように、チャーリーはジャムセッションが大好きだったが、そのことが彼の音楽の発展に寄与する一番大切な要素だったといえよう。チャーリーは独学でほぼ5年間ジャムセッションに明け暮れており、その後も彼が死ぬまで続いたのだ。
彼の上達にはずみがついたのは次の要因があったからではないだろうか。第一には、ジョー・ジョーンズか他のカンザス・シティ・ロケッツのメンバーによる噂の出来事で、ひどい仕打ちをうけたこと。彼はまだ若かったので年長のミュージシャンたちを見返したいと思ったのだろう。そしてそういった時期を乗り越えてからは、ジャムの場は彼にとって経験を積む学校になった。ついには楽器をマスターしたことに喜びを覚えたのだろう。
シカゴに着いたころには自分の演奏の腕に自覚を持っていて、エクスタインの発言からわかるように、皆に自分を印象付けたかったのだろう。はじめてニューヨークに着いたときにも同様に自分を印象付けたいと思っていたと想像できる。当時彼は自分の能力に気づいていなかったと、多くの評論家はほのめかしているが、それは疑わしい。ユニオンカードがあろうがなかろうが、仕事を得ることのできる、少なくともジャムセッションでやっていくことのできるアルトサックスプレーヤーとしての自信を持ちながら、チャーリーは北方への旅を続けたのだろう。

チャーリーの場合、ジャムの場での演奏と即興はわかちがたいものだったということも注目すべきだ。ビディ・フリートとのジャムセッションのなかで発見したメロディー解釈をいつも使いながら、どのような環境であれ、クラブ演奏であろうとなかろうと、そこがレストランの裏手であろうとスタジオ内であろうと、リクエストされたどんな曲でも、演奏してきた。新しい曲もかなり多く作ったが、それは有名なスタンダード曲を土台にしたものだ。たとえば、「Cherokee」から「Ko Ko」が、「Embraceable You」から「Quasimodo」や「Meandering」が、「Honeysuckle Rose」から「Scrapple from the Apple」が、「I Got Rhythm」から「Thrivin' On A Riff」ができた。
また、ビディ・フリートとは長年にわたる友人で、定期的に一緒にジャムセッションをしていたという事実を振り返ることも重要だ。パーカー物語のなかのビディ・フリートは、昔から考えられているより、はるかに重要な役割をになっている。下記に掲載したポスター(こちらに掲載)を見ると、パーカーとフリートが、あちこちのクラブの楽屋などでジャムセッションをしていただけではなく、仕事上の契約でも共演していたことがわかる。

1939年の晩夏に、仕事の口を求めて、チャーリーはバンジョー・バーニー・ロビンソンの楽団に加わり、メリーランドで演奏をしていた。チャック・ハディックスは著書のなかで、彼がロビンソンの楽団に居たころに父親が死んだ知らせを受けたと述べている。この出来事の時期についてはいろいろな説があるが、ハディックスの主張する時期がもっとも自然だ。混乱の原因のひとつとしてはチャーリーとアディがあべこべの時期を伝えているということが挙げられる。チャーリーは当時シカゴにいたとまでアディは言っている。アディが彼を葬儀に呼んだ時期をハディックスは1939年9月らしいと述べている。

ライズナーの著書のアディの章にはおかしな箇所がある。彼女が述べている、父が死んだときのチャーリーの反応として「母さん、なんで父さんはこんなことしたの?」という発言があるが、これはおかしい記憶だ。チャールズ・シニアは刺傷による失血で死亡したのだが、彼自身が何をしたのかはわからないのだ。

いったんカンザスシティに戻ったチャーリーは、おそらくフリーランスに戻って仕事を探していたのだろう。コード・オブ・リズムのころからの古い仲間であるローレンス・キーズ率いるバンド、ディーンズ・オブ・スウィングに、チャーリーは加入した。
そして1940年にディーンズとジェイ・マクシャンバンドとのバンド合戦が行われたのだが、その後にチャーリーはマクシャンのバンドに加入した。昔チャーリーはマクシャンのバンドから早々にハーラン・レオナードのバンドに移ってしまったことがあったが、マクシャンはそのことを根に持っていなかったところを見ると、チャーリーはよほどの売れっ子だったのだろう。1981年の『コーダ・マガジン』の記事にはこのように掲載されている。
「チャリティー行進の仕事の後すぐに、チャーリーは私たちのバンドに加わったんだ。ある晩、ハーランのバンドとバンド合戦をしたんだが、そのときチャーリーはやってきて言ったんだ。”あなたたちと演奏させてくれませんか。明日からでもいいですよ。” わたしは言ったよ。”そんなことできるか。ハーラン(キーズ?)に断りを入れないと。” そうしたら奴は言ったよ。”もし明日退団を伝えてくれたら、加えてくれるんですね。” 私はこう言った。”ううむ、その前に奴(アール・ジャクソン?)に通告しないといけないんだ。” チャーリーは言った。”その人に抜けてもらうまで、待っていますよ。” 私はそのとおりに実行した。こうしてバードがわがバンドに戻ってきたんだ。(ただし、チャーリーがマクシャンのバンドに移ってきたのはハーラン・レオナードのバンドからではなく、ディーン・オブ・スイングからだと、ハディックスは主張している)」
とりわけチャーリーはプロらしくなっていたので、彼が戻ってきてうれしかったとマクシャンは言う。
「・・・彼はかなりまっとうになっていて、バンドのいい刺激になった。音楽に真剣だったので、私が居ないときはバンドを仕切らせていたよ。・・・いつリハーサルをしたかとか、だれが遅れたかなど、彼はノートに記録していた。バンドの連中がまじめにやっていなかったら、厳しく接していたものだ。」

マクシャンが述べたようにチャーリーが模範的なメンバーとなっていたところをみると、彼はこのマクシャンバンド在団を重要な機会だと認識していたのだろう。1年前にバスター・スミスのつてだけを頼ってカンザスシティを旅立ってから、この年のハイライトは唯一、ビディ・フリートとの共演で経験した”悟り”のみだ。おそらく当時抱いていた希望はもはやないものと思ったのだろう。人気の上昇してきたマクシャンバンドで演奏できるチャンスを得たときに、より彼はプロとしての姿勢をみせるようになったのだろう。

夢を追い続けるために、彼には人生の中で合理的に進めざるを得なかった部分もある。カンザスシティは変貌し、多くのミュージシャンやバンドが去っていった。チャーリーはここには居続けられないことに気づいており、かといってレベッカを旅巡業に連れて行くわけにも行かない。アディは語る。
「レベッカはチャーリーとセントルイスへ行ったことがありますの。チャーリーは言ってました。”レベッカはどのように振舞えばよいのか何もわかっていない。僕にずっと部屋に居てもらいたがっていたけれど、こちらは他の連中と出かけなければならないんだ。”女性は男性を拘束したがるものなのね。」
レベッカもこの件について語っている。
「チャーリーが私を呼んだのよ。だからレオンをアディお母さんにあずけてセントルイスに行ったの。・・・夫婦水入らずの旅になると思ったのよ。ギグが終わって、彼は私を部屋に連れこんで、何か飲みたいものはないか聞いたの。何もいらないと言って、私は服を脱いでベッドに入ったわ。でも、その夜は何もなかった。次の日の朝、チャーリーはアディお母さんの家の鍵を渡して言った。”これをお母さんに渡してくれ。” そのとき彼は家には帰らないんだとわかったの。お母さんと顔を合わせたくなかったのね。」

チャーリーはレベッカをオリーブ通りの家の2階に呼んだようだ。そしてやさしくこう告げた。
「僕を自由にしてくれないか。」
「僕の進む道を許してくれるなら、きっとすごいミュージシャンになってみせるよ。」
この彼女へのいたわりはチャーリーの死の寸前にも見られたようで、チャーリーはカンザスシティへ戻ったときに、いままで苦しめたり傷つけたりしたことを許してほしいと言ってくれたと、レベッカは回想している。

この出来事はチャーリーにとって大きかった。彼は薬物中毒と放浪癖の過渡期にいた。この時期の彼は薬物中毒には陥っておらず、またカンザスシティから離れる必要があると感じていたのだろう。結婚生活を守っていくことができなくなったのである。

レベッカとの離婚を経ることで、チャーリーは未来を自ら築いていった。こういった彼の気質はめったに語られないことだ。彼の一生についてよく語られることといえば、彼は運命のいたずらに翻弄されっぱなしだったということ。ものすごい演奏はするが、他のことにはからっきしだめな、「白痴の天才」といった言われかたをされることさえある。
だがそれは彼にはまったくあてはまらない。チャーリーは彼自身が何をしているかしっかり自覚しており、キャリアを構築しようと努めて、自らの環境を変えていこうとしていたのだ。このいくぶん冷徹な側面は、世間に伝わるチャーリーの性格分析との違和感を感じる。また彼は野心をあらわにして決然とした性質も持っていた。これらは伝記作家がめったに言わないことだ。

しかしながら、チャーリーが他の女性と結婚していても、レベッカとチャーリーは離婚していたかどうか疑わしいところもある。レベッカはこう述べている。
「わたしはチャーリーと離婚したのかと問われると、していないのではないかと思うわ。アディお母さんが離婚を手配したのだけど、彼女はそれがすんだと言ってくれただけなの。私はそのとき若かったので、チャーリーがお母さんの許しをもらって結婚したから、お母さんが離婚の手続きもできると思っていたの。」
後にレベッカは代理人に依頼して、チャーリーとの離婚の記録を国家捜索組織を通じて探させたが、何も見つからなかった。

こうして1930年代の終わりをむかえて、チャーリーは活動の軌道に乗ったようだ。だが驚くことに、彼はもう人生の折り返し地点もむかえてしまったのである!



(完)


2006. 4. 1 Llew Walker
日本語訳 よういち



This text is from "Bird Lives" translated into Japanese,
with permission granted by Llew Walker.

Permission granted by Doris Parker under license
by CMG Worldwide Inc. USA


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