Bird Lives: 青年時代 その4
(改訂第2版:草案)


この文章は、素晴らしいパーカー・トリビュートサイト"Bird Lives"掲載の文章を、著者Llew Walkerさんのご好意により、私が和訳したものを掲載したものです。義務教育レベルの英語力で「エイヤァ」と訳したものですので、問題のある個所がいくつもあろうかと思います。間違いをご指摘いただけると幸いです。
また資料的な使い方をする場合は、くれぐれも原文を参照いただきますようお願いします。 (よういち)

原文はこちら:"Bird Lives: Adolescence"


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この時期に、ヘロイン依存というチャーリーの人生の暗い側面が見えはじめている。1937年の夏にチャーリーが注射を使っているのをはじめて見たと、レベッカは証言しており、この時期に薬物注射を使いはじめたのだと言っている。このことはサイトの別ページで触れたいと思うが、薬物注射を使ったのはこれが最初でないのは明らかだろう。このときにはすでに中毒になっていたのだから。

「ミュージシャンの収入は見合わないもので、レコードを録音する会社もなかった。」とアディは述べており、この時期ずっと、アディは彼の収入を補っていたのだろう。だが、ギディンスはいくつかの痛ましい出来事を著述して、薬物中毒がチャーリーにもたらしたことや、もう彼が母の家でさえ歓迎できない存在になっていったことを描写している。

チャーリーが浮気をしているのをレベッカが発見したのもこの時期だ。アニタ・J・ディクソンとのインタヴューで、レベッカはこう言っている。
「(カンザスシティ)南部の家族の家政婦をやっていたのですが、そのパートの仕事から帰ってきたときのことを思い出すわ。・・・コーヒーを飲みながらふと窓の外を眺めたら、一台のタクシーが止まったの。・・・この日体調がすぐれなくて(当時妊娠していたので)たまたま早めに家に帰っていたのね。タクシーの中にはチャーリーがいて、 薄い肌の色をした娘と一緒だった。彼はその子を引き寄せてキスをしたの。そしてタクシーから出てきた。もう驚いて、どうにかなりそうだったわ。」
チャーリーがラブレターをまくらの下に隠しておいた事実についても、驚きあきれながら語っている。
「奥さんは寝るときにまくらも整えないとでも思っていたようだわ。彼がどんなに子供だったかわかるわね。」
レベッカによれば、その女性はジェラルディン・スコットという、のちにチャーリーの2番目の妻になる女性だった。

1938年1月10日、レベッカは長男であるフランシス・レオン・パーカーを出産した。彼の名前は、有名なサックス奏者であるレオン・チュー・ベリーと、「星条旗」の歌の原詩を書いたフランシス・スコット・キーという人から取っている。この曲は彼がレベッカにはじめて聞かせた曲だ。アニタ・J・ディクソンとのインタヴューで、レベッカは当時をこう述べている。
「レオンが生まれてからの4ヵ月の間、チャーリーは遠出していて、そのときは子供のことを”ベイビー”パーカーと呼んでいたの。チャーリーが家に立ち寄ったときに子供に名前をつけたの。彼が名づけたいというから、ずっと待っていたのよ。」

チャック・ハディックスとフランク・ドリッグスの共著「Kansas City Jazz」でハディックスは、カンザスシティの各協会の文書を徹底調査し、チャーリーの人生で起こった出来事についての新たな情報を発見している。学者や伝記作家が、ここ50年以上もチャック・ハディックスほどの入念さで調査を行なってこなかったことが悔やまれる。ちゃんと調査がされていれば、パーカーの謎や虚偽がこんなに定着してしまうことはなかっただろうに。

長男が生まれた後の1938年2月中旬、チャーリーはルーシーズ・パラダイスでバスター・スミスと演奏活動をした。チャーリーがスミスに見守られていたということは、スミスの発言からも明らかだ。
「奴は俺をおやじと呼んで、俺は奴を息子と呼んでいたよ。奴をほっとけなかったんだな。俺にぴったりくっついていたよ。バンドの演奏ではソロを分け合った。俺が2コーラスやれば、奴も2コーラスやって、3コーラスやれば、奴も3コーラス。4コーラスやれば奴もそうした。」
チャーリーもインタビューでこう述べている。
「バスターと一緒に活動するために、当時の仕事をすべてやめたよ。」 この発言はバスターへの敬意をあらわすだけでなく、彼が当時は創造的興味のわかないバンドでたびたび働いていたことを示唆している。

その年の4月、カウント・ベイシーの参加したバスター・スミスのバンドで、ジョー・ジョーンズと共演する機会を得た。チャーリーは大いに満足だったかもしれない。ほんの2年前に若きチャーリーへシンバルを投げつけていやがられせをしたとも伝えられる、あのカウント・ベイシー楽団のドラマー、ジョー・ジョーンズとの共演である。ジョーンズはチャーリーの変貌を目の当たりにしてびっくりしたのではないか。

1938年7月、スミスはカンザスシティからニューヨークへ旅立っていった。時期がきたらニューヨークに呼ぶと、チャーリーに言葉を残して。カンザスシティの情勢は変わってしまった。ペンダーギャスト政権の放任主義による黄金時代は終わり、法律は整備されて、各クラブはたちまち閉店したのだ。危機を察知した多くのミュージシャンはカンザスシティを去っていった。レベッカと暮らしていたチャーリーはカンザスに残っていたが、それでも彼の未来はシカゴかニューヨークにこそあると感じていたのではないだろうか。

スミスがニューヨークへ旅立った同時期、レベッカは流産を経験する。レオンを産んでからほんの5ヵ月後のことだ。チャーリーはずっと薬物中毒にはまっていたが、このことがどれだけ精神的痛手になったのかは明確ではない。だが、良き友人だったロバート・シンプソンが前年の秋に死亡したときには、チャーリーはあきらかに荒れていた。チャーリーにとって、死を身近に接する経験をしたこの時期は苦しかったかもしれない。そのため薬物におぼれていったのだろう、のちに自分の息子プリーを亡くしたときと同じように。だが一方で、チャーリーのキャリアは明確なかたちになりはじめてきた。

スミスはニューヨークのユニオンの決まりで、在住後3ヶ月間は働くことができないことがわかった。一方チャーリーはバンドを託されていたが、カンザスシティはペンダーギャスト政権後で仕事が少なくなり、バンドは解散してしまった。ミュージシャンの仕事はすっかり無くなってしまっていた。チャーリーはまたフリーランスの状態に落ちいってしまったのだが、ジェイ・マクシャンに拾われることになる。

スミスとの協力関係はパーカーにとって次のように実を結んだようだ。同年の11月にゴールドクラウン・タップルームで行われた、ジェイ・マクシャンバンドと、ハーラン・レオナード・カンザスシティ・ロケッツとのダブルビルの広告で彼が宣伝されたのだ。そこには「サックスは若きチャーリー・パーカー」と記されていた。チャーリーがソロイストとして広告にフューチャーされたのはこのときがはじめてではなかろうか。チャーリーがサックスを手にしてからの5年の成果がここにあらわれている。
だがチャーリーはすぐにマクシャンバンドをやめて、当初の契約が75セントという好条件でハーラン・レオナードバンドへ移った。そして次の月にレオナードバンドの一員として「ヴァイン・ストリート・バラエティ」という人気バラエティーショーに、はじめてラジオ出演をした。レオナードはチャーリーを有望視していたようで、ドリームランドホールでのクリスマスダンスパーティーの時には「最高のサックス奏者」と紹介している。

そして1939年1月にはダウンビート誌にまでチャーリーのことが小さく掲載されたのだ。だが、順風満帆におもわれたその時期にレオナードはチャーリーを解雇してしまう。
「私たちは、彼を出演させることができるかどうか、計算ができなかったのです。」
1970年の新聞記事でレオナードは説明している。

1938年はこの若きサックス奏者にとって飛躍の年といえたようだが、1939年に入ると雲行きが怪しくなる。問題となった主な原因は明らかにヘロイン中毒がひどくなったことにある。ギディンズの著書には、レベッカの語る当時のつらい出来事がいくつか記載されている。そして母アディでさえチャーリーを追い出さなければならなかったことが述べられている。
「・・・チャーリーはレベッカに暴力をふるいはじめたのです。私はチャーリーに、あなたは間違っている、不幸を呼ぶわ、一番良いのはあなたが出て行くことよ、と言いました。そしてチャーリーはシカゴへ行ってしまったの。」
レオナードに追い出され、スミスには見捨てられ、仕事もなくなり、ひいては薬物を買う金もなくなり、妻への虐待を恥じ、その仕打ちは自らに跳ね返ってきて、彼はまったくだめになってしまったのかもしれない。未払いの料金のかわりに彼のサックスを取ろうとしたタクシードライバーを、チャーリーが刺傷したという逸話もあり、あいまいながらそのときにカンザスシティの裏組織も一役買ったらしいとの示唆もある。レオナルド・フェザーは著書『Inside BeBop』でこう述べている。
「・・・だが、カンザスシティの裏社会との黒い関係の中で、彼の本性はゆがめられていった。成人してからの生活とプロとしての活動もこれらとの関係に染められてしまった。・・・」
帰郷してくるチャーリーを、あやしい人物が空港で待ち構えていたと、アディは述べている。ほぼ間違いなく裏社会の人物だろうと思われるイタリア人について、アディは2度言及しているが、チャーリーは裏社会とのかかわりを持ち、薬物を手に入れるようになり、借金もするようになったのだろう。だがそこで何が起こったにせよともかく、1939年初旬、ニューヨークへ行ってバスター・スミスに会おうと、チャーリーは列車で旅立つことになる。

ビリー・エクスタインは、イギリスの著述家マックス・ジョーンズとの有名なインタビューで、1939年にキング・コーラックスの出演したシカゴの65クラブに現れたチャーリーについて語っている。
「ある朝、私たちが店内でうろついていると、たったいま貨物列車で到着したような、その時にこれ以上考えられないほどのぼろぼろの風体の男がやってきた。そしてグーン(ガードナー)に”ねえ、君のサックスを吹かせてもらってもいいかい?”と聞いたんだ。・・・グーンは”ああいいよ。どうぞ”と言ったので、奴はステージに上がった。そこでの吹きっぷりにはまったく圧倒されたよ。それがチャーリー・パーカーだった。カンザスシティからの貨物列車で着いたばかりだった。バードはその時せいぜい18歳程度だったと思うが、聴いたこともない演奏をしていた。アルトが泣き叫んでいるようだった。・・・奴は吹きまくり、皆を仰天させてしまった。」

ニューヨークへ向かったチャーリーがなぜシカゴに居たのかははっきりしないが、チャーリーが放浪しつつ移動していたのなら、まず北方への列車に乗るのが適していたのだろう。またチャーリーはシカゴとのつながりがあったのかもしれない。最近の証言では父方のおじと異母兄弟がシカゴに居たとのことだ。なので宿泊できる場所のあった可能性がある。65クラブでの出来事ののち、グーン・ガードナーはチャーリーを家に連れて行って、食事をさせ、新しい服をあたえて、ギグの機会をつくってやった。チャーリーはサックスを持っていなかったので、クラリネットを貸してやったとのこと。当時チャーリーがシカゴで実際に演奏していたのか、それははっきりしないが、チャーリーがクラリネットを持ったまま居なくなってしまったと、グーンはのちに証言している。そのことに合致することとして、1994年ロンドンでのクリスティーズのオークションで3つのクラリネット用マウスピースを含んだアイテムが出品されたことが挙げられるだろう。チャーリーと住んでいたころに、彼がそれを使っていたとチャンは言っている。

チャーリーが次に現れた場所は、ニューヨークのバスター・スミスの住居の玄関だった。若い浮浪者のような姿を見てスミスは驚いた。
「奴はまるでひどい身なりでやってきたんだ。とても長いこと靴を履きっぱなしで、すっかり足が腫れ上がっていた。そして、かなり長いことわたしのアパートに泊まっていた。」
事実、少なくとも夏の間チャーリーはスミスの住居に泊まっていた。スミスの奥さんの反対にもかかわらず。
この年チャーリーが何をしていたのかは大部分明らかになっていないが、ミュージシャンとしての職が見つからず、ジミーズ・チキン・シャックというレストランで皿洗いの仕事をしていたことは知られている。そこではアート・テイタムがたまに演奏することもあった。チャーリーは皿洗いをしながらテイタムの技術を吸収していったと、音楽的なかかわりが多くあったということを評論家は指摘している。だが、レストランで皿洗いをしているときにどうやって学ぶことができるのだろう。これはチャーリー・パーカーに関する逸話の、格言のひとつみたいなものだったのだろう。

この時期のチャーリーが金欠で得したことは、ヘロインに依存することが徐々に少なくなって、音楽に集中できるようになったことだ。皿洗いをしない時間は、モンローズ・アップタウンで行われるような、街のあちこちのジャムセッションに参加していた。そして1939年11月、ダン・ウォールズ・チリハウスの裏手でウィリアム・”ビディ”・フリートとセッションをしていたとき、彼は音楽的”悟り”を得て、演奏の方法を変えていった。

「当時使っていた典型的なコードチェンジ(ハーモニー)に飽きていたんだ。そのときコードの高い方の音をメロディーラインとして使い、それにふさわしいコード・チェンジをつけることを発見して、かつてから耳の中で聞こえていたことをプレイできるようになったんだ。私は生き返ったよ。」

メロディーの別の演奏の仕方に突然目覚めたというチャーリーの有名な発言は、ときに間違って引用されたり、間違った出典が明示されたりしている。彼の最後の発言を「私は飛べるようになったよ」と間違って表現されていることがよくある。ケン・バーンの大型ジャズTV番組でもそうだ。

この体験が多くの成果を生み、オザーク遠征の逸話のように、チャーリーは突然の芸術的啓示をうけたことで技術と能力の大躍進を遂げたといわれている。かといって、以前のチャーリーが特にテクニシャンではなかったと言ってしまうのは現実的ではない。1年前、彼が「最高のサックス奏者」と宣伝されていたことを考えると、際立った能力をすでに持っていたのだろう。当初から技術と能力を持っていなければ、この”悟り”は彼にとってなんの意味もなくなってしまう。だが、この”悟り”こそが当時チャーリーがジャムセッションを通じて求め続けていたことだったので、大きな意味を持つことになったのだろう。


(続く)


2006. 3.19 Llew Walker
日本語訳 よういち



This text is from "Bird Lives" translated into Japanese,
with permission granted by Llew Walker.

Permission granted by Doris Parker under license
by CMG Worldwide Inc. USA


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