Bird Lives: 青年時代 その2
(改訂第2版:草案)


この文章は、素晴らしいパーカー・トリビュートサイト"Bird Lives"掲載の文章を、著者Llew Walkerさんのご好意により、私が和訳したものを掲載したものです。義務教育レベルの英語力で「エイヤァ」と訳したものですので、問題のある個所がいくつもあろうかと思います。間違いをご指摘いただけると幸いです。
また資料的な使い方をする場合は、くれぐれも原文を参照いただきますようお願いします。 (よういち)

原文はこちら:"Bird Lives: Adolescence"


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チャーリーが最初に退学する一月前の1934年4月10日、ラフィン一家がオリーブ通り1516番地に引っ越してきた。そこで13歳のパーカーはレベッカに心を引かれてしまった。母ファニー・ラフィンは夫マーカスと離婚して、5人の娘と1人の息子を連れてパーカー一家のもとにやってきたのだ。8歳歳の離れた兄弟姉妹のなかでレベッカは真中に位置して、3人の妹と1人の姉そして兄が居た。夫から離れて誰かの家に下宿するところを見ると、ファニーはかなり勇気のある女性だったのではないか。1930年の市民台帳にはラフィン一家は自宅を持ち、マーカス・ラフィンは保険のセールスマンをしており、ラジオを一式持っていたと記録されている。

また、ラフィン一家がオリーブ通りにやって来たことがチャーリーの退学に影響している可能性もありそうだ。

そこに越してきたとき、レベッカはニッカボッカの半ズボンをはいているパーカーに会って、ちょっと面食らった。「彼ぐらいの歳になってそれをはいているのは奇妙に見えた」。幼いパーカーはといえばまるで女の子を見たことがなかったかのように彼女達をじっと見つめたままで、引越しを手伝おうともしなかった。「チャーリー・パーカーのことが知りたいの? 教えてあげます。彼は怠け者よ!」 ラフィンはギディンスとのインタビューでこう答えている。チャーリーは同年代の子供たちと一緒にいることが楽しかったようだと著者は述べている。ラフィン家の子供たちに愛着を持つようになった、なによりもレベッカに。

彼は友達もほとんどおらず、さびしそうな少年だったとレベッカは述べている。だが、元クラスメイトのエドワード(エグバート)・メイフィールド・ジュニアはまた別のチャーリー像を伝えてくれる。
「彼は幾分乱暴なところがあり、ちょっと意地悪でした。いじめるわけではないのですが、すぐ殴るんです。」
ジーン・ラメイはこう述べる。
「パーカーは実に反社会的な奴で、過保護で甘やかされた、まったくの子供だったよ。皆とうまくやっていくことができないんだよ。」
それにもかかわらず、彼が学校に居続けることができたのは、ラフィン家の少女たちとの交友があったからだと思える。こうして音楽的な成長へと向かうことができたのだろう。

1934年秋から1935年春頃までのチャーリーの活動についてはよくわからないが、アルト・サックスの練習を猛烈に重ね、ラフィン家の子供達との友達関係を仲良く続けていたと考えるのが当然だろう。レベッカは言う。家の階段を滑り降りて、その裏に回りこみ、チャーリーが母の買ってくれたサックスで練習している様子を聴いていたとのことだ。

1935年6月7日にレベッカは高等学校を卒業する。このときチャーリーは14歳でリンカーン高等学校楽団に在籍しており、エルガーのオーケストラ版『威風堂々』を演奏していたそうだ。そして、この2ヵ月後にテン・コードのバンドに加入し、4ヵ月後にはプロのミュージシャンとして演奏者ユニオンに仮加入することを考えると驚くべきことだ。1934年から1935年にかけては、猛練習をしていた時期だったと考えるのが妥当だろう。レベッカはこう語る。
「チャーリーはいい子でした。本当にいい子だったのよ。目を閉じながらサックスを練習して・・・、没頭しているようだったわ。ときどき聞いたこともないような音が聞こえてきたわ。誰かがチャーリーとしゃべっているような音だった。ひとしきり練習に没頭してやっと手を休めて、私が部屋に居るのに気がつくと、”やあ”と笑いかけるの。」

高等学校在学の間に、チャーリーは彼にとって初めてのバンドであるテン・コード・オブ・リズムに加入して、ミュージシャンとしてわずかではあるがお金を稼ぐようになる。テン・コードはクラブで演奏活動をしている、ローレンス・キーズ(キース?)というチャーリーとは5歳離れた同校の先輩が率いていたバンドだ。もともとダンスの伴奏バンドであり、1935年8月のカンザスシティ・コール紙には「カンザスシティの新しいダンス楽団」と記載されている。そしてその年のうちにジョージ・E・リーが彼らをハロウィン・ダンスのために雇い、その見返りとして2ドルの費用がかかる627地区演奏者ユニオンのメンバーとして彼らを加入させる手助けをしている。

ユニオンに加入したことが、チャーリーが勉学への興味を完全に失う前兆だったのだろう。1935年12月10日、彼は正式にリンカーン高等学校を退学した。ただ、退学したこととユニオンに加入したことは互いに関連性のない出来事と考えた方が自然だろう。

テン・コードは散発的に年内は演奏を続けたが、パセオ・ホールでのクリスマスのギクを最後に解散してしまった。そして、チャーリーはフリーランスとなりいろいろな楽団の演奏やギグ、そして「スプーク・ブレイクファスト」と呼ばれる早朝のジャムセッションにも参加した。

チャーリーとレベッカ・ラフィンとの関係もその当時に深まっていった。ギディンズいわく、2人は恋をして、アイスクリームを食べたり、チェリー・ソーダを飲んだり、街を歩いたりして、しばしば一緒に過ごしていた、とのことだ。パーカーは純心で、まったくの紳士だったとレベッカは語っている。だが、彼女がチャーリーの部屋にいるのを、レベッカの姉妹のひとりが見かけて、そのことを母のファニーに何の気なく告げたのだ。厳格な宗教家であるファニーは、一家でこの家を出て行ってレベッカがパーカーと会うのを禁じたそうだ。オリーブ通り1516番地に越してきてほぼまる2年、ラフィン家はまた引っ越して行ってしまうことになる。

1936年の初頭、チャーリーはジョー・ジョーンズよるあの有名ないやがらせを受ける。これはパーカーを好意的に描写したイーストウッドの映画「Bird」にも出てきた。チャーリーがジャムセッションでの演奏に苦闘しているときに、ジョーンズがその演奏の評価として、ゴングショーの鐘のようにシンバルを床に投げ込んだ。恥ずかしくなったチャーリーが泣きながらクラブを出て行ってしまった、そういう話だ。
ただ妙なことにジョー・ジョーンズは、数多く受けた彼自身の生涯に関してのインタビューの中でも、この出来事について明言したことはない。一方のチャーリーはスターンとのインタビューで、彼が笑われたことについて明言しており、カンザスシティ・ロケッツ楽団から受けたひどい仕打ちを回想している。目撃証言は1つのみ。ジーン・ラメイはこう述べている。
「ジョー・ジョーンズはバードが演奏を始めたところを待ちかまえて、ダンスフロアーにシンバルを投げ込んだんだ。バードの演奏に感じたことを表明したかのようだった。バードの演奏をかき消すような音が響き渡り、屈辱を受けたバードは楽器をしまって出て行ってしまった。」

この件に一番関係の深いジョーンズの発言としては、古典的ジャズ書『Hear Me Talkin' To Ya』で読むことが出来る。
「カンザスシティではその当時、観賞用にジャズが演奏されるクラブの立ち並ぶ、街のあちこちから集まってくる若者達がいた。ジーン・ラメイ、チャーリー・パーカー、彼らはそれぞれ個性が強く、学習欲の強い子たちだった。その多くは、例えばジェイ・マクシャン楽団で演奏を経験したような、もしくは演奏でき得る子であった。中にはカンザス内で自分でバンドを組んでやっているのもおり、小さなベイシー楽団よろしく活動しながらも、彼らを乗り越えて新しいものを生み出そうという気概に満ちていた。」
この文章を読むとジョーンズが、ジャムで演奏する若いミュージシャンを困らせようとするような人物であるとはとても思えない。とりわけカンザスシティのミュージシャン達は、音楽を学びたい若者を奨励し支援していることで有名だ。
最近の調査では、ロケッツ楽団によるいやがらせが起きたとされる時期、ジョーンズはまだカンザスシティにはいなかったことが示唆されている。だとしたらこの出来事はおそらく1937年の夏以降に起きたことになるが、年代順に並べてみるとまるで遅い時期になる。演奏中にへたな演奏をさらしあげるようなことはリスクのある行為だろうし、チャーリーが今まで述べてきたような早熟さであったなら、(1937年の夏以前に)別のもっと老練なミュージシャン達にいやがらせを受けたのに違いない。

ジーン・ラメイはまた別の光景を伝えている。
「バードはちょっと落ち込んでいた。皆がジャムをやっている中で、参加させてもらえないミュージシャンの数少ない一人だったからだ。」
15歳のパーカーを自身の楽団のアルト奏者として雇ったオリバー・トッドはこれを裏付けている。
「・・・仕事のあと、連中はジャムセッションに行ったが、チャーリーが来るのを見るとその場を立ち去った。ピアノ奏者は彼とは演奏しようとしなかった。」
これらのことでたまった不満がチャーリーを練習に駆り立てたのではないか、そして少なくとも前以上に練習を重ねるようになったと思える。これら屈辱的な出来事によって彼は、仕返しをしてやろうと思うよりも、より良いミュージシャンになろうという決意を固めることになったのではないだろうか。

チャーリーにもひどい演奏だった時期があるという証言も複数存在する。エディ・ベアフィールドは語る。
「チャーリーが演奏し始めたころ私もカンザスシティにいた。ひどい演奏だったので私達は彼に演奏させなかった。」
ジーン・ラメイも同じ見解だ。
「当時バードは音楽的に演奏をすることも何もできなかった。実はバンドのお荷物で、他のメンバーも彼にはきつく当ったものだった。」
オリバー・トッドも同様のことを語る。
「当時の彼の演奏はひどかった、聴いちゃいられなかった。皆で馬鹿にしたよ。ポンコツなサックスを吹き、ブッシングもポンコツで、すべてがポンコツだった。」

チャーリーは演奏技術をもっと学ぼうと他のミュージシャンにいろいろ聞きまくるようになり、いくぶん迷惑がられた。彼は本当に勉強したかったのだ。彼がその気になったとき、パーカーは人が思うほどのガキではなかったとバスター・スミスが裏付けている。かれはこう回想する。
「1932年か33年当時、チャーリーはほんの子供だった・・・。強情だった。だけど、うぬぼれてはいなかった。いい子だったよ。人の話を聞く耳を持っていた。」
ジェイ・マクシャンはインタビューで、チャーリーがスミスに夢中になっていた話を聞かせてくれる。
「今まで聴いたことのない演奏をスミスがしたのをチャーリーが聴いたとき、彼はすぐ家に帰ってその演奏を練習したがった。そこでチャーリーはこう言った。”僕はリハーサルに参加しない。でももし今夜音をミスしたら罰金をとってもいいですよ。”」
そしてその夜の演奏をこう語った。
「彼はまさに音楽の中を飛び回っていたよ。」

1904年にテキサス州アルドロフに生まれた、”教授” ヘンリー・フランクリン・”バスター” ・スミスは、音楽の天才と言っても良い人で、アルトサックスを3日で独習したという伝説を残している。ブルー・デヴィルズとベニー・モーテン楽団という、当時2つの最も重要な地方バンドで働き、1930年代にはカウント・ベイシー楽団で有名になった。チャーリーは彼を”王様”と呼んでいた。スミスはカウント・ベイシーが有名になる時期に重要な役割を担っている。有名なベイシー・ナンバー「One o'Clock Jump」の共同作曲者でもある。だが生涯通じて認知度は小さかった。「ベイシーはスミスとの長年の協力関係について口に出すことはなかった。」とチャック・ハディックスは言っている。1991年に彼は死去した。
マクシャンがスミスを回想する。
「(プロフ)バスターはルーシーズ(・パラダイス)という所でよく演奏していたんだ。ある夜、たまたまルーシーズからのラジオ中継を聴いて、今夜のバスターは実にすばらしいな、と思ったことがあった。次の日バードに会ったので、”おい、バード。昨晩ひょっとしてルーシーズで演奏しなかったか?” と聞いてみたら、奴は、”ええ、昨日は快調でしたよ。” と言ったんだ。そこで俺は言ったよ。”なんだって、おまえはプロフにそっくりの演奏だったな。” 私はラジオでプロフの演奏を聴いたことがなかったので、聴き分けがつかなかった。・・・プロフはものすごいクラリネット奏者でもあった。彼自身、どれだけクラリネットを吹けるのか自覚していなかったのが残念でならないよ。私は彼ほどすごいクラリネットを聴いたことがないんだからね。」

チャーリーがトミー・ダグラスと働くようになったのも、スミスに傾倒していく、このあたりの時期だ。
「私がバンドを7人編成に縮小したときに、チャーリー・パーカーと働くようになった。彼はアルトサックスを吹いていて、当時15歳程度で高等学校生だった。」
この時期はコード・オブ・リズム在籍時期や、その他の共同活動の時期とぶつかる。ハディックスいわく、チャーリーがダグラスと本格的に組んでいたのは1938年と思うのだが、この当時はフリーランスの身で短期契約をしていたのではないか、とのことだ。チャーリーにとっては雇ってくれればどんな人とでも演奏したのは間違いないだろうが、いつ誰と組んだのかははっきりしない。未確認情報としてはオクラホマ州でバスター・スミスと長期演奏をしていたというのもあるが、確証は得られていない。


(続く)


2006. 1.15 Llew Walker
日本語訳 よういち
(追記:2006. 4. 2)




This text is from "Bird Lives" translated into Japanese,
with permission granted by Llew Walker.

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