Bird Lives: 青年時代 その1
(改訂第2版:草案)


この文章は、素晴らしいパーカー・トリビュートサイト"Bird Lives"掲載の文章を、著者Llew Walkerさんのご好意により、私が和訳したものを掲載したものです。義務教育レベルの英語力で「エイヤァ」と訳したものですので、問題のある個所がいくつもあろうかと思います。間違いをご指摘いただけると幸いです。
また資料的な使い方をする場合は、くれぐれも原文を参照いただきますようお願いします。 (よういち)

原文はこちら:"Bird Lives: Adolescence"


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”・・・西部に住んでいた頃、隣人が母に出て行ってくれと迫ったことがある。私の吹くサックスの音で気が狂いそうになると言うんだ。当時は1日11時間から15時間吹いていたからね・・・。私はそれを3、4年間続けていたんだ。”
~チャーリー・パーカー 1954年

このチャーリーの発言をハッタリと思い、忘れてしまう批評家は多い。だが実際は、思ったよりも正確な事実だったように思う。チャーリーが音楽的素地のない少年から、並みのレベルであれ、プロのミュージシャンになるための期間は、極めて短期間だ。約12、13歳頃にサックスを手にしてから(もしくは取り返してから)、15歳には彼はプロのミュージシャンとしてミズーリ州カンザスシティのクラブで演奏していたのだ。17歳には完成されたジャズミュージシャンとして、そして19歳には音楽的”悟り”を開き、天才チャーリー・パーカーへの道を歩んでいった。

チャーリーの生涯の中で、彼の10代については年代順に記述していくのが非常に難しい。例のごとく日時や出来事について矛盾がついてまわり、彼の進歩を正確に把握しづらいのだ。とはいえ、なんとか論理的に時系列で彼の出来事を把握したいと思うものだ。時としてパーカーの伝承に反する部分も出てくる。それでも彼に起こった出来事を捕らえてみたいと思う。平凡な子供からサックスの達人になるまでの、奇跡的でめざましい、何かに取り付かれたんじゃないかと思われるような、彼の音楽的進歩を。

パーカーの2番目の妻であるドリス・シドナーはこう言った。
「私自身は素敵な幼年時代を過ごしましたが、チャーリーに幼年時代というものはなかったのです。・・・彼が14歳の頃に興味のあったのは、友人たちとベンゼドリン・パーティーを開くことでした。15歳にはカンザス・シティの風潮のせいで薬物中毒になりました。」
彼女は後に繰り返し言った。
「チャーリーの幼年時代がチャーリーをだめにしたのではないの。チャーリーには幼年時代というものがなかったの。」
このパーカーに対しての見方が全て正しいとは思えないが、パーカーの自滅の根源が彼の若い頃にあり、そのことがドリスの意味することなのだろう。母親の溺愛、アルコール中毒である父親の不在、音楽は盛んだが享楽的な街などが、パーカーの自己破壊的な性格へと影響を与えたのではなかろうか。いずれにせよ、早熟の少年はこれらに害されて、その結果として1930年代にミズーリ州カンザスシティで手に入ったようなものを、大人になっても好むようになったのは間違いない。

1930年前後のチャーリーについてわかっていることは少ないが、彼が10歳の頃はミズーリ州カンザスシティ西34番街109番地の住宅に、母アディと父チャールズ・シニアと共に住んでいたとわかっている(この住宅は現在も存在している)。一家は1927年に州を移転して、まずこの住所で暮らしていたと考えるのが妥当であろう。チャーリーはこの頃はまだ白人富裕地区ウェストポートにあるペン校に通っていた。

1930年の市民台帳では、パーカー家は核家族で、チャールズ・シニアは建物の管理人、アディは専業主婦として明記されている。おかしなことに、チャーリーは前年9月以来ずっと学校には通っておらず、読み書きができないと、この市民台帳(1930年1月に調査された)には記載されている。この表記は、チャーリーが1927年から1930年まで通っていたとするペン校の記録と矛盾している。この期間まで学校に通っていたなら読み書きはできただろう、そうでなければ進級ができないはずだ。

1930年から1932年の間、学校の記録には一家はワイアンドット市3527番地という以前の西34番街よりはペン校から少し近い場所に住んでいたと記載されている。

1932年9月チャーリーはサムナー初等および中等学校の7年生に編入したと、学校の記録に残っている。市内の別の地域に学校はありペン校よりもさらに遠くなるので住所を変えることを余儀なくされたのだろう。この学校への編入と、オリーブ通り1516番地への住居の移転は同時に、1932年の夏に行われたようだ。一家はこの5年間で3度住居を変更しているが、この最後の引越しに至って、たぶんパーカーの勉学への興味はそがれ始めたのではないだろうか。

チャールズ・シニアがいつ一家から離れていったのかははっきりとしないが、ひょっとしたらオリーブ通りへの引越しの際に離ればなれになったのかもしれない。チャールズ・シニアが離れていく際にジョンを連れて行ったとも伝えられているが、最近の調査でジョンはカンザス州に残って祖母エラ・パーカーの許に居たと結論づけられている。1920年と1930年の両方の市民調査で、彼はカンザス州側のカンザスシティのワシントン大通り844番地に住んでいると記述されている。ジョンはカンザス州に残りダグラス校を卒業して、サムナー高等学校とノースイースト高等学校に通い、高等学校の卒業証書を得て、成人してからはカンザスシティ郵政公社に勤めた。

ところで、ミズーリ州でチャーリーの通っていた学校はクリスパス・アタックス初等学校だと長いこと言われ続けていた。チャーリー、母、友人、教師までも、彼がこの学校に通っていたと証言したとの記録が残されている。だがミズーリ州の学区の学生資料室には、チャーリーがこの学校に通った記録は残っていないのだ。なぜチャーリーの母校について、このような認識を多くの人間がもっているのかははっきりしない。ひとつ思い当たることとして、この学校は、チャーリーがジャズの教育を受けた18番街とヴァイン通りの地域のすぐ近くにあるので、おそらくこの辺で学問の教育も受けたのだと拡大解釈されていたのではなかろうか。

チャーリーが初めてサックスを手にした時期もよくわかっていない。さまざまな時期が言われているが、初めてアルトサックスをねだった時期としては、どうやらルディ・バレーの演奏を聴いた11歳頃のようだ。だが、それに飽きて2年も友達に貸しっぱなしにしていたとのことだ(これは甘やかされてた少年らしい行為とも言えよう)。そのサックスは45ドルもして、修繕でもっとかかったとアディは言っている。いずれにせよ、ギディンスが著書およびDVD『Celebrating Bird』で述べていた、この歳にサックスに取り付かれていたという記述は真実ではない。

1933年9月にチャーリーはリンカーン高等学校へ入学した。そこでは、ミュージシャンやバンドリーダーの尊敬を受けていたアロンゾ・ルイスの指導のもと、最初はバリトン・ホーンとアルト・ホーンを習っていた。そしてある時点でアルト・サキソフォンに戻っていった。
他の楽器を演奏するのに飽きて、それ以来サキソフォンの演奏に集中するようになったと言われている。だがこれも本当ではないようだ。およそ2年後の1935年6月時点でも学校の楽団でまだバルブ楽器を使いつづけ、レベッカ・ラフィンの卒業式で演奏していたのだ。加えて、バリトン・ホーンについてチャーリーは「騒々しく、楽団から目立った楽器だったので、審査員が無視することはできなかった」と述べている。
キープニュースいわく、チャーリーはバルブ楽器での演奏活動とあわせてサックスも上達したと思われ、バルブ楽器とリード楽器を共に練習していたのではないか、とのことだ。片方の楽器の習得がもう片方の習得の妨げになることもありえるが、チャーリーにとっては両楽器の技術を同時に習得することが彼のアンブシュアを強化することになり、技術習得の助けにつながったのではなかろうか。またこれが、他のミュージシャンにとってチャーリーのサックスを演奏するのは難しかったという理由にもつながっていくのではないか。彼のサックスはリードがとても固く、ひどく力をこめて吹かなければならなかったのだ。

1934年5月9日、彼の1年生の最後の時期に、奇妙なことに13歳のチャーリーはリンカーン高等学校をやめている。これは推測するしかないが、おそらく父が家を出て行ったことと関係するのではないだろうか。若きチャーリーは一家の柱になろうとしたのだろう。だが、アディは2年間昼夜働くことにして、チャーリーに通学を続けさせることになったのでは。こうして、1934年9月1日、14歳の頃にチャーリーはリンカーン校へ復学したのだ。
この一時的な退学は学校への興味をチャーリーが失った表れでもあろうし、彼が学校を良くさぼっていたという多数の証言を裏付けるものでもあろう。チャーリーは「高等学校で3年間過ごしたが、1年生のままでやめてしまった」と発言しているが、そんなことはない。また別のところでも引用されているような、1年生をやりなおしたと言う発言の確証もない。学校の記録には彼はきちんと進級し続けたとある。この事実はチャーリーにとって学校の勉学は易しかったというアディの発言につながってくる。ただ、音楽が生活に入り込んでくるにつれて、彼は勉学への興味を失っただけなのではないだろうか。

この退学が、学校への興味を失い、チャーリーがミュージシャンになろうと決意を固めた表れだったと見なしてみよう。彼はすでに新居の近所にある夜の街を体験していたということになる。もしそうなら、若い頃から夜遅くクラブを徘徊していたという話は本当のことだ。しかも13歳の頃にはすでに麻薬の危険にさらされていたと言ってもおかしくはない。

あいまいながらも当時を時系列的に並べると、チャーリー・パーカーは13歳の頃にアルト・サキソフォンを熱心に練習し始めた。比較的歳を取ってから練習を熱心に始めたと考えるのが自然だ。そして2年あまりで、彼は627地区演奏者ユニオンに加入して、ローレンス・キーズとテン・コード・オブ・リズムのバンドに入り、プロとして18番街のクラブで演奏するようになった。

チャーリーがなぜミュージシャンになることを選んだのかははっきりしない。ただ、彼が仕事を必要としていて、その中でも簡単そうでかっこよさそうなのは音楽の演奏以外に見当たらなかった、といった発言は見受けられた。この発言からは、彼が夜の街を体験して当時の偉大なジャズミュージシャンを観ていたことを実証していると思われる。その音楽と生き様を目の当たりにして、とりこになってしまったのではなかろうか。これが正しければ、彼は12,13歳の頃には夜の街へ出歩いて、レスター・ヤング、ベン・ウェブスター、コールマン・ホーキンス、ジョー・ターナー、カウント・ベイシーといった、偉人達を観ていたということになろう。

まだチャーリーは若く、入れてくれないクラブもあったので、裏手の小道に居着いてミュージシャンの演奏を聴いたり、時には自分のサックスを持ち込んで一緒に演奏しているかのように指を滑らせたり、眠ったりしていたのだろう。彼のニックネームの由来の一つがここから生まれている。チャーリーはクラブの裏庭にいつも居着いていたので”ヤードバード”と呼ばれるようになったというものだ。

アディは夜も働いておりチャーリーは夜の街を自由に徘徊できた。夜間に放って置かれていたので、彼が怠惰になっていったのは間違いないだろう。幼少の頃からの友人アーネスト・ダニエルズはこう述べて、彼の怠惰な様子を実証している。
「チャーリーと知り合った頃、彼は真夜中の12時か1時くらいに私の自宅にやってきて、窓に小石を投げてくるんだ。そして私たちはジャム・セッションで演奏しに行ったものだよ。いつのことだったかはっきりはしないけど、キーズと演奏していた1934年から1935年頃のことだったと思うよ。」
ギディンズもこう述べている。
「アディは彼が家に居ないことには頓着していなかった。優秀なミュージシャンの演奏のよく聴ける12番街周辺の軍用地区に立ち入ることを、彼女はあらかじめ禁止していたのだ。」
だが、チャーリーはヴァイン通りと12番街や18番街あたりが好きで、母の言いつけを守ることはなかったとのことだ。


(続く)


2005.11.27 Llew Walker
日本語訳 よういち



This text is from "Bird Lives" translated into Japanese,
with permission granted by Llew Walker.

Permission granted by Doris Parker under license
by CMG Worldwide Inc. USA


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